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歴史を研究する意義

歴史って研究して何になるの?とよく言われる。

ひとつの答えとして、過去の経験を現在に生かすため、というものがある。
間違ってはいないとは思う。
ただそれが主たる目的であれば、時代なら近代・分野なら政治軍事等にフォーカスした方が効率的である。
だが現実問題それ何の役に立つん?と思わざるを得ないようなニッチな分野を研究する学者は多く存在し、その目的は個人の好奇心の探求に尽きるようにも思われる。
実際学者自身は知りたいことをただひたすら追いかけているだけなのかもしれない。

けれど歴史研究には、より広範に影響を及ぼす役割があると思う。
それは「物語を紡ぐ」ということだ。

例えば日本の歴史を想起する。
古来より続く天皇制は不思議なシステムで、財力・軍事力をほとんど持たないにも関わらず、形式上天皇は国の中心にあり続けている。
このシステムを支えているのは実力ではなく権威なのだ。
そして権威を裏付けているのは背景にある物語である。
物語があるからこそ、日本とはどのような国なのかをイメージできるし、1000年前の日本人を自らのルーツとして認識することもできる。

こうして日本人は当然のように物語を享受する。
しかし世界を見渡せば日本の物語がいかに珍しいものであるかがわかる。
日本ほど長期に渡って(形式上であったとしても)同じ王朝が存続している国というのはほとんどない。
日本の物語が優れていたからというよりも、島国であったために物語の秩序を壊す新しいキャラクターの登場が少なかったためであろう。
よって日本人はアップデートを繰り返しながら同じ物語を共有し続け、その周囲にある利害関係を回すことができたのである。

このように歴史において物語は常に中心にあった。
しかし我々は同様のルールである法の共有には意識的であるにも関わらず、物語に意識を向けることは少ない。
なぜなら物語が法よりも下層の部分で基礎をなしており、場合によってはそれが事実であると思い込んでいるからである。
これに関して、法は現在を生きる我々の意思で変えられるが、物語は覆すに妥当な過去の「客観的」証拠を要するということが起因している。
物語は法に比べて安定しているのだ。
だからこそアイデンティティを支え、結集させる根幹となりうる。
一方で日常生活において物語の恩恵を実感することはほとんどない。
おかげで真実味があるのは良いのだが、等閑にされてしまうので難しいところである。

したがって物語は秩序維持において大きな役割を果たしている。
今や物語の規模は世界にまで敷衍した。

にもかかわらず物語は現在危機に瀕している。
文系不要論などがその最たる例だ。

天皇に財力・軍事力がなかったからこそ権威が守られてきたように、たかが物語だからこそ効力を発揮する物語を、たかが物語だと浅はかに切り捨てようとする輩が大勢いる。
現代のネオリベや実利主義は、目先の利益に関与しないものを切り捨てていくから物語の重要性を理解するのは難しいかもしれない。
もちろん長い歳月によって生み出された物語はそう簡単には崩れないであろうが、もし物語を瓦解させるようなことがあれば、数千年かけて構築してきたルールを作り直すことなど不可能である。

潜在的に秩序を守り続けてくれた物語が消滅したとき、どんな混沌が待ち受けているか。
それを予測することはきっとできない。


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