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小説| 平成ネオンモス。 #2 - 詩人のなり損ね、漆黒に染まった言葉を玄関先で売り。

 神保町の外れに社を構える株式会社フジヤマ商事は、自社で開発した商品を電話でアポイントメントを取ったお客様のご自宅に出向き(または完全な飛び込み営業で)販売するのが主な事業内容の中堅訪問販売会社だ。顧客や元社員から次々と訴訟を起こされ、現在も紛争中の案件をいくつも抱えている。きりが五年前、本人の適性から全く外れたこの企業に就職を希望したのは「商品を売るのではなく、自分の言葉を売れ」という富士山社長の方針が「詩的」にきりの心に響いたからだった。

 学生時代、きりは詩人になりたかった。詩作の同好会に入会し、詩の同人誌に定期的に詩を発表するなど学生生活の時間の多くを「詩人」を意識して過ごした。同好会仲間やゼミの教授からの詩の評判は良く、作品を公開するたびに周囲から「傑作だ」「心の琴線に触れる」とお誉めの言葉をもらい、校内の詩の審査会で連続で受賞するなど評価は上々で、きりは新しい詩が出来上がると詩誌に投稿し、出版社へ持ち込むこともした。その甲斐あって「注目のJD(女子大生)詩人」としてメディアに取り上げられることもあった。この調子でいけば、ゆくゆくは世間が自分の言葉に注目し、その詩の一篇一篇を高値で買いたがる人たちが現われ、自由に言葉を売って暮らすような毎日が訪れるかもしれないと、淡い夢を思い描いた。

 やがて就職活動が始まり、きりはリクルートスーツを着て何社か面接を受けたが、はじめから就職活動には乗り気でなく、案の定一社も内定をもらえなかった。そのためきりはバイト先の御茶ノ水のカフェ・バーで卒業後も引き続き働かせてもらうことにした。バイト生活を送りながら、都内各所で開催されるポエトリー・リーディングのイベントで自作の詩を読むパフォーマンスをしたり、念願の処女詩集を自費出版するなど、地道に活動を続けていた。しかし、それなりに売れるだろうと思っていた初の詩集は知人への手売りや文学系同人誌の販売会で数十冊売れた程度で、大した反応はなかった。そのうち、バイト先のカフェ・バーが経営不振で閉店し、きりはバイトをいくつかかけ持ちしてどうにか暮らしていたのだが、だんだんと家賃の支払いが滞り、アパートの電気も止まり、非常用の懐中電灯で部屋を照らした時、きりはいっきに目が覚めた気がした。床に積み重ねてある売れ残りの自分の詩集を手に取り、薄い本のページを開くと、昨日まで眩しく輝いていたはずの自分の言葉たちが急に色あせて見えた。あたし今まで何を勘違いしていたのだろう…とんだ言葉の無駄遣いだった。これでは言葉たちが浮かばれない。きりは落胆し、泣いた。書き溜めていた詩のノートを翌日燃えるごみに出した。
 地に足をつけて生きなければ。きりの選択肢は、今後も東京で生活していくのか東北の実家に帰るかの、身の丈に合った二択に絞られた。きりは学生時代に付き合い始めた純哉と今も関係が続いていた。経済的に不安定で頼りない男だが、純哉と別れるのは惜しかった。きりは求人情報誌で見つけた条件の良さそうな求人に片っ端から応募した。バイトよりも正社員が良かった。けれどその思い虚しく、面接に進む前に書類選考でほとんど落ちた。そんな中、面接まで残り、採用してもらえたのはフジヤマ商事ただ一社だった。
 フジヤマ商事入社当時、きりは右も左もわからない状態で闇雲にインターフォンを押して回った。面識のない人間に接すると緊張感からか早口で一方的にしゃべる癖があったのも災いし、商品はまるで売れず、ただただしんどさが増すばかりで、この仕事が自分に向いていないことをあらためて思い知った。「あとひと月で結果が出なければ辞めてもらう」と富士山社長から言い渡された時は自分の無能さに落ち込んだが「所詮やけくそで入った会社だ、クビになったら実家に帰ろう」と適当に手を抜きながら一ヶ月先の解雇を待った。
 幸か不幸か、ひと月経ってもきりは解雇されなかった。翌月から教育を兼ねてきりのセールスパートナーに就任したのが社長の息子の富士山陸部長だった。陸は、深い三重瞼を持ちずんぐりむくっくりな父親とは正反対の、高身長で寒々しい顔立ちをした色白で華奢な男である。
 陸が歌舞伎町の元ホストで現役のプロボクサーだという話は、入社した日に上司から聞かされた。物静かではあるが、誰も逆らえない威圧感を秘めた謎の多い男で、しょっ中社内の噂話のネタにされていた。
 陸の立ち振る舞いは、女性的な柔らかさを持ちながらステンレスの歯車のように鋭く正確で、一見無意味で無駄としか思えないような社内の雑務全般を、熱を持ちつつも冷静に社員の前で率先してこなしてみせた。そのスマートな仕事ぶりを、社員の憧れの存在に仕立てているのが社長の富士山徹である。息子の方の富士山は、普段は頭から足元までシックなテイストのハイブランドで固めていたが、外回りのセールスへ出かける時は灰色の安物のスーツに着替え、靴も地味で質素な量産品に履き替えた。陸はきりにもスーツ三点セットを制服として買い与えた。化繊百%の、袖回りの可動域が泣きそうになるほど粗悪な着心地の。安物のスーツを身に着けたきりは、富士山式セールスの四十八手を陸に叩き込まれることになった。

…まず、ドアだけを見る。ドアのちっちゃなのぞき穴の辺から下の表面が溶けかけて塗料がどろどろに流れているドア、引き戸の木枠がねじれ、腐って変色している玄関。頭で考えず、別の目を使うこと。知ってるよね?ダリの時計の絵。あの時計みたいに、内側から金属の歪みがきて凹凸のひどいドアは必ず狙って。住人に会う前に、獲物かそうでないか、大方見極めておけば精神的負担が軽くなる。ドアが開いて中にいる住人を観察するのはそれから。ドアが開けばもうお客様だから九割成功すると思っていい。ただし、前もってアポが取れているお客様は九割どころか百発百中いけるから、絶対取り逃がさないこと。言い訳は許さないよ…

 陸は、初対面の人間に対する遠慮や恐怖心のかけらを表面に垣間見せることがなかった。あいにく玄関先で住人に冷たく追い払われることがあっても、磁気羽毛布団を肩に担いでさっさと撤退し、ご機嫌に鼻歌を歌いながら次に目をつけておいた住宅へ向かうのだった。きりは陸の足手まといにならぬよう、お客の前では陸の口裏に必死で調子を合わせた。嘘。嘘。全部嘘。陸とお客とのやり取りを聞くたび、きりの口元がひきつる。
 ある時、ひと仕事終えた陸が辛辣に言い放った。
「円谷はこの磁気羽毛布団の性能を信じてる?信じてないよね?俺が必死でお客様の気分を盛り上げてんのに隣で罪悪感顔に出しまくってせっかく作り上げた空気ブチ壊して誰が得すんの?確かに、ものの質の割に、価格設定の高さは異常。しかしそれでも買ってくださるお客様がいる。なんでかわかる?価格相応か、それ以上の効果が『ある』とお客様が信じてくださるから。羽毛と磁石の質を特別で最高級なものだと偽るのは、お客様への心からの感謝と思いやりなの。お客様の気持ちを裏切ってどうすんの。いい?最終的に商品の良し悪しを決定するのは、訪問販売員の話術次第。円谷もお客様に元を取らせて差し上げられるよう勉強して一刻も早く仕事の質を上げてね、わかった?」
「はい」
「その『はい』が本当か嘘かは結果で示せ。死ぬ気でやれよ」
「はい!」
 正社員という念願のポジションを獲得して間もないきりは、ふつふつと恐怖心を煽りながらお涙頂戴の美談をまじえた陸の口車に上手く乗せられ、自分の頭で物事を判断する能力をすっかり失っていた。陸の、大胆でありながら細やかな仕事ぶりを近くで見ているうちに、きりの中に陸に対する恋愛感情のような想いが湧いたのも、陸の思惑通りだったに違いない。陸に自分を認めてもらいたい、褒められたい願望が強まっていけば必然的に仕事の業績は上がっていく。そうして仕事への情熱を人一倍高めていくきりだったが、きりの向上心を引き出すだけ引き出しておきながら、陸はそれをあっさりとぶち破る。
「これは悪業だ詐欺だ、ヤクザだ。親父はこの商売を神のお告げで始めたと言っている。確かに親父は慈善団体や神社仏閣にいくらか寄付などしてるらしいが、あいつがどんな善業重ねても死んだら地獄行き確定だ。まぁどうでもいい。今のうちに聞いておくけど、円谷がフジヤマ商事で実現させたい目標は何?」
 きりには、人生の確固とした目的がなかった。とりあえず今は正社員でいられるだけでうれしくて、詩人になりたかったことなどすでに遠い記憶になりつつあった。「今後も食べていけるだけのお給料が継続的にもらえれば」そんな風にも言えなかった。
「答えらんないのなら今すぐ辞めて別を探したほうがいいんじゃねえの?自分がこの仕事に向いてないっていう自覚はあるんだよね?まさか円谷、この仕事が好きな訳ないよな?俺はね、大好きなんだよ、この仕事が。…あぁ、わかった、わかったわ、昔キャッチセールスにひっかかって痛い思いしたトラウマがあって、今度は自分が不特定多数の人間に仕返ししたいとか?そんな理由で弊社を選んだとか?」
 陸は笑い、きりは答えなかった。
「他の社員の女たちを見てみな。あざとさが染みついてロクなもんじゃねえ。全員整形してるし。あ、整形が悪いと言ってるんじゃないよ、俺も相当顔面いじってる。そんなの仕事する上でのたしなみのひとつだから。円谷も、明らかにサービス業向きでないそのコケシのような貧相な目鼻立ちを仕事用にカスタマイズする日が来るとするならば、結果はともかくお前の仕事へのやる気が本物だということを多少は認めてやるよ」
「申し訳ありません、整形については現状では考えてなかったです。わたし、このままの顔で仕事するのはちょっと厳しいでしょうか?」
「ものすごいハンディキャップを抱えることになるけど、実績でカバーできればなんの問題もないと思うね。ただ俺は、ありのままの自分を認めてほしいと甘えられるよりも愛され顔に自分から変えて見せる潔さのほうを評価するのがポリシーなんで。社長命令でお前の教育してるだけの俺が勝手にどうこう言える立場じゃないが、そこまで意識上げて取り組む気がないようなハンパな奴はうちではいらないんで早めに辞めてもらったほうがありがたい」
「今後いっそう努力しますから仕事は続けさせてください」きりは力なく、だが本心でそう言った。

 富士山社長は「宇宙意識」や「人類愛」を、エピソードを変えて朝礼のスピーチに盛り込むのを日課としている。社員は声を揃え「全てはお客様の幸福と繁栄のために――株式会社フジヤマ商事社訓」を精一杯気持ちを込めて叫ぶ。「仕事が楽しい!しあわせです!ありがとうございます!今日も商品がたくさん売れて、お客様もわたしたちもどんどん豊かになります!」きりはこの社訓を唱えるのが抜きん出て上手い。やり直しを命じられたことは一度もない。きりは日頃から自己を啓発する類の言葉に飢えている。マーフィーやアドラー、ワイズマンの本は沢山持っている。アパートの部屋に帰れば、タイトルの尻にエクスプラネイションマークのついた本が本棚の一部を占領し、並んだ背表紙で熱い一篇の詩が完成している。――――焦らずにいけ!小さいことにくよくよするな!自分に嘘をつくのを今すぐやめろ!やりたくないならやるな!七つの習慣で楽に生きる!空気を読まない人ほど成功する!問題はここにあった!悩んだほうが成功する!今やらなくてどうする!明日死ぬと思えばなんでもできる!!
「フジヤマフジヤマフジヤマ商事!フジヤマフジヤマフジヤマ商事!」最後に社員全員が社名を大合唱して朝の朝礼は終わる。

 訪問先でひと仕事終え、家の門を出た途端、陸は涼しい顔できりの後頭部を殴った。しっかりと痛みを感じる痛さだった。きりは殴られるのは嫌だったので、その後は極力殴られない行動を取るよう心がけた。しかし無駄だとすぐにわかった。仕事が思いのほかはかどっても、陸は気紛れにきりを殴り、そうかと思うと明らかに陸の前でミスをしたのに殴らない時もあった。気分が良いと一方的に語り出す癖に、機嫌が悪いときりの話に相づちも一切打たずシカトし続けるところは父親の富士山徹とよく似ていた。
 陸は、きりを毎日外に連れ出し住宅街の道という道をくまなく歩いた。きりは早足で陸の後を追いながら、巧みな理屈で構成された、富士山家独自のビジネス論を聞いた。…この金融資本主義の社会で、ピラミッド構造の上へ昇れば昇るほど潤い、そうでない人間はますます底辺で苦しみ喘ぐことになる。円谷、底辺は嫌だろ?潤いたいだろ?そのために円谷が今この会社でどうするべきか、わかるよね…というシンプルな概念を、陸はきりにうんざりするほど叩き込んだ。しかしどんなにきりにそれを擦り込んだところで、きりは訪問販売員として一定の基準以上の売り上げの成果を出すことがどうしても出来ずにいた。さすがに仕事を辞めようと考えることもしょっ中だったが、今までいろんなバイトを転々としてきて、また一から求職活動をし直すことがかなり億劫に感じ、転職するより今の方がマシだと思った。
 きりは陸の指導に肺活量のない相づちを繰り返すので精一杯の日々だったが、陸はきりの返事が気に入らないと、きりの首を自分の腕で軽く絞め上げ、腹の底から響くような健やかな「はい」の返事を聞くまで絞め続けるのだった。恐怖と緊張と息苦しさのせいか、きりは次第に言いようのない快感をおぼえるようになっていった。むしろ失神させてほしいとさえ思った。

 陸は、六勝二敗三TKOの戦歴を持つプロボクサーでもある。ホストを辞め、プロテストに合格した陸は、練習時間を作るため日中は訪問販売員として働き、夕方以降は叔父夫婦が経営している飯田橋のボクシングジムに通っている。毎月トップセールスを記録しながら日々ハードな練習をこなす陸が、フジヤマ商事の中で社員に一目置かれているというのは、きりにも少しは理解出来る。
 興行元から大判の紙の束が宅配便で会社に届くと、きりは陸の試合が近いのだとわかった。社内の壁に社長自らポスターを貼ったり、ポスターの中の「フジヤマ☆陸」の印字を蛍光マジックで囲んでさらに目立たせたりして親馬鹿ぶりを晒している。試合のチケットは、社員数名ずつ順ぐりにまわってきた。まわってくると、社員はそれを自腹で買わなければならなかったので、格闘技の類に興味のない社員は困惑した。しかも社内でチケットが売れても試合を観に行く社員はほぼいなかった。仕事の売り上げノルマが厳しく、試合時刻までに仕事を終わらせることが出来ないのだ。
 新人時代のきりは、一人で外回りに出ることを許されていなかった。陸の試合の日は他の訪問販売員たちを見送り、内勤の電話番をするのだ。当然、社長は試合数週間前からきりにチケット購入と試合観戦を迫った。しかも「円谷は陸に特別世話になってるから特別リングサイド席だよな」と社長に言われたら、きりは差し出された数種類のチケットの中で最も高額のものを選ばない訳にはいかなくなってしまう。そして仕方なく後楽園ホールへ足を運ぶのだった。
 初観戦の日、きりはリングからなるべく離れた自由席の最後列に腰を降ろした。これから計十試合が予定されていた。第一試合から一ラウンドTKOが続き、試合はおそろしくスムーズに進行していく。
 何試合目かのあと、白いガウンを羽織った陸がふてぶてしい態度で姿を見せた。
「青コーナー、一八二センチ一二四ポンド、フジヤマボクシングジム所属、フジヤマーっ、陸!」
 選手よりも存在感際立つ、明るい髪色をした男たちのグループがウォーーッと一斉に歓声を上げた。陸の昔の夜職仲間のようだった。
 両耳の潰れた中年のトレーナーがコーナーポストから身を乗り出し、リングインした陸にアドバイスする。陸が頷く。無駄な脂肪のない、筋肉の陰影がくっきりと映えた陸の色白な肉体は、汗で艶やかに光沢を帯びていた。「普段服に隠れている陸の皮膚にはびっしりと墨が入っているのだろう」というきりの想像は良い意味で裏切られた。
 ゴングが鳴った。トレーナーが早口で檄を飛ばす。「ガード下がるな、前に出て。そこ、ボディ、そう、止まるな、手数出せ、動いて!動いて!」
 ほの暗い会場の天井に吊るされたいくつものライトが、リング上で力の探り合いをする二人を煌々と照らし出している。三ラウンド目、陸のパンチが相手の腹と顔に数発連続で入ったが、相手は倒れてくれない。陸は相手の顔面にワンツーを繰り返した。陸のスタミナが限界だ。汗が飛び散る。相手の切れた目尻から血が流れ出し、低い歓声が上がる。倒せ!潰せ!きりも次第にリング上の二人の死闘に見入っていた。倒せ!倒せ!……勝つのはどちらでも良かった。きりはどちらかが負けるのを見たかった。
 試合終了後、会場の隅にいたきりを見つけた富士山社長がきりを控え室まで引っ張っていった。きりがしぶしぶ従ってついて行くと、控え室はフジヤマボクシングジムの関係者や後援会員のすし詰め状態で、きりは中に入れずにいた。人ごみの間を覗き込むと、陸の傍らでスポーツタオルを膝に乗せ寄り添うフジヤマ商事事務担当の恩田ちなみの姿が見えた。そういえばちなみさん、今日は出社してきていなかったな、と朝の記憶を辿っていたら、ちなみもきりに気づいたのか、廊下に出てきて、「円谷さぁん、わざわざ応援に来てくれて本当にありがとう」ときりに労いの言葉をかけた。「部長の彼女さんだったんですか?」とは聞けなかったが、男の勝負の場に花嫁みたいなフェアリーなドレスを着て愛想を振りまく安っぽい女にうっすら嫉妬心が湧いた自分が悲しかった。
 試合は陸の判定負けだった。きりは部屋の奥でうなだれて黙っている陸に声をかける気も起こらなかったので、恩田ちなみに会釈をするとそっとその場を引き上げた。

 顔の腫れがようやく引いてきた頃、陸は再びきりの教育係に復帰した。それはきりにとって、陸と仕事を共にした最後の時間となった。毎日幾人もの善良な人々が、陸に騙されながら笑顔で書類にサインをする場面が、きりの瞼に繰り返し焼きついた。陸の、低音のゆらぎで人を催眠状態にさせる話術は、傍らで聞いていると、きりでさえお客様と一緒に、うっとりと心地良い眠気に襲われる。
 やがて、きりにも陸の影響があらわれた。リズミカルで自信に満ちた澱みのない発声や笑顔、言葉のイントネーション、商品を出す間の取り方など、陸の商売用の人格は、ほんのり女性性をかぶって、きりの心身に思いのほかスムーズに憑依した。陸とのペアが解消され、一人で訪問先を回るようになってから、社内で指折りの訪問販売員に成長するまで、それほど長い時間はかからなかった。

 訪問販売の仕事は、お客様を楽しませながら会話をつなげていくスキルに加え、お客様の話の中に隙間をいくつ見つけられるかも重要である。訪問したお宅の玄関先で、お年寄りの糞つまらない自分語りや、独身の中年男性や主婦のエンドレスな不幸自慢をうんざりするほど聞かなくてはならない。お客様は販売員の気持ちなどおかまいなしで気持ち良さそうに長話を続ける。こちらもプロだからお客様に気持ち良くなってもらうのも仕事のひとつと考える。しかし傾聴ボランティアではない。気持ち良くなってくれた対価としての商品購入の契約を見送られた時の心身の摩耗度といったら酷いものだ。
 とある独居老人のお客様のお宅に伺ったら案の定、退屈な長話が始まった。きりは我慢強くお客様の話を聞いていた。するとお客様はきりに後光が見えると言い出した。
「あなたは観音様だ、とても眩しく尊い存在だ」とお客様がひとり感極まり盛り上がった流れで高額な商品を無事に購入してもらった。後日、同じお宅に別の新商品を売り込みに伺ったら、お客様がきりの目の前で突然ズボンを降ろし、自慰行為をし始めた。こういうことは時々ある。「観音様に手伝ってほしい」とお客様は言った。きりは動揺を抑え、やんわりと要求をかわした。かわしながらひるまずに契約に持っていくのが訪問販売員のスキルの見せどころである。だがお客様は「観音様と自分が結ばれないなら契約も結ばない」とごね始め、結果「帰ってくれ」と家を出されてしまった。中には、契約を取るためにはお客様の肉便器になることも厭わない仕事熱心な同僚もいるが、陸から「色恋は上手く使え、ただ枕は禁止、病むから」と元ホストらしい指導を受けていた。
 訪問先での契約がさまざまな理由で成立しなかった時、玄関を出るときりは瀕死寸前になる。この仕事でいちばん怖いのはお客様の感情をもつれさせ、お客様が逆ギレして「自分が騙された」という被害者意識が膨らみ出し、消費者センターから弁護士事務所へ、さらに警察に話が行く場合だ。会社側も法律の網を上手く掻いくぐって経営しているため刑事事件として立件されることは稀なのだが、仮にクーリングオフ不可で契約自体は解消されなかったとしても、お客様を幸せにできていない時点できりとしては失敗である。

 そして、夢物語のように五年が過ぎ、気がつくと、一万二千戸のドアを開いて歩いたことになっている。今のきりならもう、不穏な「しみ」の潜むドアであろうがなかろうが、ノックしてしまえば臆することなく住人に話を始められる。しかし、最近きりの成績は芳しくない。陸は、突然出社しなくなってから一年が経つ。社長は陸の所在について社員に何の説明もしていない。聞いてはいけないような雰囲気だったので誰もその件について社長に訊ねようとはしなかった。そういえば恩田ちなみもいつの間にか辞めていた。ちなみが陸の先に辞めたのか、陸が先だったかも思い出せない。会社の黒板に白のチョークで記された富士山陸の名前の脇には「指定休」のマグネットプレートが今も貼りついたままになっている。陸はボクシングに挫折して歌舞伎町のホストクラブに出戻ったんだろうという最も現実味のある推測が、社員の間に一時的に広まったが、人の出入りの激しい社内ですぐに忘れ去られていった。
 五年という時間の蓄積が、きりにこの職を「天職」だと信じさせた。典型的なブラック企業だが、こんな自分を雇い続けてくれた会社に多少の情も湧く。
 営業成績が良かろうが、悪かろうが、テレフォンアポインターが電話で訪問の約束を漕ぎ着けた家に、最近売り出し中の、自己啓発プログラム用CDセットを持って出向くのが、きりの変わらない日課だ。玄関先で断られても、間髪を入れずに隣の家のドアの前にアポなしで立つ習慣は、日に日に契約成立の数が減っていても簡単にやめたりはしない。今回売り出し中の自己啓発プログラム用CDセットは、陸が企画開発部に籍を移した頃進められていた企画が、陸がいなくなった後に商品化されたもので、試作品の段階から社内での評判が良く、社員の意気込みがいつもと違っていた。音声を訪問先で売り込むのに最も適しているのが今も根強い需要があるコンパクトディスク(CD)形式だと結論づけ、何度も試作を繰り返した。企画開発部の社員たちがさまざまな新興宗教団体や自己啓発セミナーに潜入し、あらゆるメンタルトレーニング方法や哲学書を研究し、豊かで幸福な人生を努力や労力なしで簡単に掴むためのハウツーが凝縮された商品を完成させたのだった。
 株式会社フジヤマ商事訪問販売員およびテレフォンアポインターたちが好む商品とは?
 当然ながら質の確かな商品であることに越したことはないが、ごく自然な流れでお客様の興味や好奇心を誘い、それを販売する社員たちがお客様との契約を成立させるまでの過程を楽しむことのできるような魅力的な商品のことを指す。森林の写真をデザインしたホログラム仕様の紙製のボックスには、年間を通して聴くための二十四枚のCDと、同じ数のテキストが入っている。蓋を開けると桧の香が漂うのは、匂い袋が入っているからだ。教則本は、商品開発部の社員が各団体に潜入調査して得た情報や、市販の自己啓発本やネットで拾ったデータを切り貼りし、それらしく編集したものだ。著者である〇〇大学精神医学科教授△山×夫の顔写真も、陸が神保町の古書店で買った古い男性誌の中から切り抜いた、医学博士らしい風貌をした名もなき人物だ。

 訪問先では、持参したポータブルCDプレーヤーから流れる、アルファ波と1/fゆらぎをミックスしたシンセサイザーのメロディーをBGMに「人間の耳に聞こえない独自の周波数でメッセージが流れているんです。ポジティブなメッセージが無意識に働きかけます」と、もっともな説明を加える。商品の内容に話が到達した時にはすでに仕事のヤマは越えていて、実は前段階の話術の方でかなりの労力を有しているから、この辺りまでくると契約は成立したようなものだ。「『豊かになる』『気持ちが楽になる』『がんばらなくても願いが叶う』……と、CDはテーマごとに別れているんですよ」
 説明を最後まで聞いたお客様には、さらに売り文句を穏やかな口調で浴びせる。細心の注意を払うべき場面だが、顔に笑みを浮かべ落ち着いた物わかりの良い人間になりすまし、また、自分の少し不完全な、もろい部分もちらつかせてお客を安心させるのはキャリアを重ね培ってきた技術だ。時には人に言えないような恥ずかしい悩みを打ち明けたりしてお客様に借りを作るなど、相手に合わせて方法を変える。するとお客様は、一時間前まであってもなくても構わないと思っていた商品が気になり出し、最後にはどうしても手に入れたくなってしまう。お客様はきりの言葉の魔術にかかると従順になり、拒絶することも忘れ、大事なお金を水のように株式会社フジヤマ商事に入金してくれる。お客様のほうが「ありがとう」と言うのは茶飯事だ。法外な金額の購入契約が成立した瞬間、敗北したのは購入者なのだがきりは自分が負けたような錯覚を起こす。(#3に続く)

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