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小説| 水際の日常。#8 - サレ妻、下剋上新カノと旦那包囲網に無念の撤退。

■別れたくはなかったけれど

 智之が不倫する可能性を、あたしは想像すらしたことがなかった。信じ切っていたというよりも、疑うということを思いつかなかったのだ。

 冷静になってみると、智之ばかりを責める気にもなれなかった。
 あたしも、知人から芸能人まで…情の強さ深さにグラデーションはあるが、結婚後の浮気心には複数の心当たりがある。浮気心以上の浮気も、プラトニックとはいえ、なきにしもあらずだし、プラトニックどころか、結婚前からうっすらと関係の続くセフレと数回逢瀬して、智之には応じ切れないトリッキーなSMプレイで自分の隠している性癖を昇華したことも、ある。
 けれど、智之に配慮はしてきた。それが手の届かない世界にいる韓国のアイドルへの恋心だとしても、身体の需要と供給がマッチしただけの男だとしても、自分の意識の中にある智之以外の異性の気配を智之に知らせることはない。それが智之への最低限の礼儀であり、たしなみだと思っていたから。

 智之の不倫はかなりショックだったが、それ以上に、智之の心の機微に気づかなかった自分もどうかしていた。よく考えてみたら、あたしが一人の男に一途に愛され続ける世界線がこの世に存在するはずがない気もして、勝手に納得してしまった。
 智之は生粋の遊び人だ。そのせいか、実年齢よりかなり若く見える。理屈よりもバイブス重視で、後先のことを考えるのは苦手なほうだ。かわいくて魅力的な若い女の子が智之を誘ってきたら、断るのはきっと難しいだろう。けれど、それが単に一時的な浮気ではなく、二人の付き合いが長かったことがあたしの身に堪えた。
 明奈とはすぐにでも別れて欲しい、それがあたしの本音だった。

■甲斐性ってなんなの

 その日、智之が帰宅すると、あたしは単刀直入に明奈の件を尋ねた。
 智之は拍子抜けするくらいにあっさりと認めた。
「オレ、明奈と別れるつもりはないから」智之はいつもの調子で無邪気に答えた。
 そして「モチはこのままここで暮らしたいなら今まで通りにしてればいいし、出て行きたいならそれでもいいし…」と、悪びれることなく付け加えた。
 親父には昔から二号さんがいて、オカンも彼女を認めてる、親父は彼女の家族の面倒をいまだに見てるし、自分も親父みたいな甲斐性は持っていたいから…と、智之は自分の主張を嬉々として説明した。
 確かに、中小企業の経営者が愛人持ちなのはこの地域では珍しくなかったが、智之の言い分に「うんうんそうだよね」と納得できるはずもなかった。

 後日、あたしの母親はそのいきさつを知って智之に激怒したが、義父母のほうはあたしに謝罪の気持ちを示しつつも、智之に寛容だった。
 義父母は明奈のことをすっかり気に入っているようで、明奈はすでに半分娘のように智之の実家に入り浸っているとか…。
 これまで、あたしをあんなに歓迎し受け入れてくれていた智之の家族は、智之の不倫が明るみになると、今度はあたしを嫁の立場からじわじわと排除していく方向で一致団結し始めた。
 いざとなったら何があっても一家総出で城壁のように智之を守りに入る家族の絆に、外様のあたしはどんな正論を持ち出しても勝てる気がせず、
「オレは別れても別れなくてもどっちでもいいんだけど」を連呼する智之がダサすぎて、心底吐き気がした。

■敗北者は去るしかなかったの

 あたしの育ったこの町では、家同士のトラブルを内密に処理することは難しい。必ずどこかから噂が広がり、地域の格好の娯楽コンテンツと化す。そして、この町では男が不倫しても社会的信用を失うことはない。失うどころか不倫はいまだに男の勲章のひとつとされ、「お手柄」となり評価が増す。
 あたしと智之の、当事者間の問題としてだけなら早く進みそうだった離婚手続きは、渡す渡さない、受け取る受け取らない、の互いの親族間の意地の張り合いに発展し、ひと山ふた山超え、財産分与なし、智之側からいくらかの慰謝料をもらう形でようやく成立した。

 結婚当初から智之と住んでいたマンションは会社の所有だった。住み慣れたあの部屋にあたしが戻る権利はないのだと思うと、寂しさと悔しさで自然に涙がこぼれた。

 疎遠だったとはいえ、智之の出入りするコミュニティーにあたしが立ち入ることももうないだろう。明奈がいるならなおさら無理。…ということは、あたしは、そこにいる共通の友人関係もひっくるめて、この土地で生きるために軸となる大切なものを、離婚とともに明け渡さなくてはならなかった。

 智之と共通の友人知人には極力会いたくなかったが、どんなに気をつけていても、何かの用事で外出すれば生活圏内で誰かに遭遇するのが田舎というものだ。それは智之の友人や親戚だったり、時には、明奈本人だったりもした。明奈はショッピングモールを歩いていたあたしと目が合って一瞬気まずい顔をしたが、きちんとあいさつはしてくれた。でも二度と会いたくはなかったし、次に会った時も気さくに対応出来る自信はなかった。

 上手く折り合いをつけられる性格だったなら、そのうち惰性で慣れてきて、どこかにまた自分の居場所を見つけ、新しい恋人が出来たりしたかも知れない。

 あたしの中のつまらないプライドが自分を追い詰めた。
 あたしは自分の意思で、自分の好きだった場所や友人たちを葬り、地元を去ることにした。#第9話へ続く

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