見出し画像

【短編小説】文庫本より小さな愛を胸に抱いて

「ねえお母さん、どうしていつも文庫本ばかり持っているの?大きいサイズの本のほうが読みやすいのに。」

昔、そんなことを母に尋ねたことがあったっけ。

うちの両親はみかん農家を営んでいた。母は山に向かう時、いつも朱色の手提げの布袋に「文庫本」を持って行っていた。お昼にお弁当を食べながら読む時間が幸せなのよ、と母は楽しそうに話していた。

まだ小学生だった私は、「文庫本」と聞くと少し自分には遠い存在に感じられていた。数年前までは頭が隠れるほど大きな絵本を母に読んで貰ってたし、学校に置いてある本も「単行本」と呼ばれるB六判サイズのものが多かった。

「文庫本」は表紙も簡素だし、文字もちっこくて読みづらい。確かに値段は安いけれど、せっかく本が好きなら「単行本」として綺麗に装丁されたものを買えばいいのに。私は、子供ながらにそう思った。

「あなたも、大人になったらきっと分かるわよ。」

母は、おかしそうにクスッと笑って、それだけ私に言葉を返した。

それから八年後、初めて母の言葉の意味が分かった。

私は高等学校を卒業して、五駅程離れた町にある小さな出版社に勤めに行き始めていた。当時は卒業後すぐお嫁に入る子も多かったが、本を読むのが好きで勉強も苦にならなかったため、先生からの推薦を頂いたのだった。

毎日革の鞄の中には「文庫本」が入っていた。「文庫本」は筆箱やら手帖やら詰めた後の鞄の隙間に、すっと入れられるサイズだった。「単行本」だと、幅をとるし鞄も重くなってしまう。満員電車の中、狭い座席で肩をすぼめ読むには、「文庫本」の小ささも軽さも丁度良かった。

大人になるってことは、「小さい本」の良さが分かるってことなのね。

絵本ばかり読んでいた子供は、学校の図書館で「単行本」を借りるようになり、やがて大人になると「文庫本」を好むようになる。


歳をとるにつれ、私達は「小さい本」を愛する生き物なのかもしれない。


そんなことをふと考えながら、電車の中で本を読んでいると、突然、

「その本『檸檬』ですよね。梶井基次郎。好きなんですか。」

僕も好きなんですよ、と隣に座っていた一人の青年が話しかけてきた。

ピシッと整髪料で固めた髪に、真新しい黒の背広を着ている。私と同じくらいの歳だろうか、まだ初々しさが残っている。

急に声を掛けてきたので、私は不審な顔で彼を見つめると、

「あっごめんなさい、僕、本が大好きで、ちょうど最近『檸檬』を読んでいたので、偶然だなあと思って、つい話しかけちゃいました、すいません。」

冷や汗をかきながら、彼は何度もごめんなさい、と謝っていた。

「どんな本が好きなんですか。」

私は前を向いたまま彼を見ずに小さくそう聞くと、彼は、えっ、と少し驚いた表情を見せた後、

「最近は夏目漱石とか川端康成とか読んでます、あっ、あと宮沢賢治も好きで...」

聞かれたことが余程嬉しいのか、目をくりくりさせながら好きな作家を次々に挙げていく。こっちが尋ねても無いのに、あの作品はあの一節が良いとか、ぺらぺらと喋っていく。中学生に戻ったかのような、純朴さだ。

まあ、悪い人ではなさそうだな。私はそう思った。


これが、夫との最初の出会いだった。

もう、五十年も前の話だ。


そして、今私の手の中には、「梶井基次郎」の「檸檬」がある。


夫は、つい三日前に亡くなった。膵臓がんだった。

がんが見つかった時には、もう手遅れだった。


もう余命はわずかだと、そう主治医の先生から告げられた次の日、夫は力を失った手で、私にこの「檸檬」を渡してきた。

夫と出会ったあの日から、ずっと手元に取っておいた「檸檬」。もうすっかり表紙も禿げ落ち、紙もひどく色褪せている。でも、どうしても捨てることは出来なかった。

「自分が亡くなったら、これを開いてほしい。」

私は、そっと本を開いてみた。ページをめくると、古紙のカサカサという音ともに、独特のつうんというにおいが伝わってくる。

後のほうのページまで行った時、ぱらっと一枚の便せんが足元に落ちた。

そっとひろい、二つ折りの中に書かれた文字に目をやる。

「今まで、一緒にいてくれて、本当にありがとう。」
「五十年前、電車の中で、話しかけて良かった。」
「出会えて、幸せな人生だった。」

たった三行。

好きな本の話は饒舌に話すのに、大切なことは少し言葉足らずなところも、あの頃からずっと変わっていない。

「檸檬」と一緒に渡すなんて、そんなかっこつけたことする人じゃなかったじゃない。らしくないわね。私は、涙を流しながら、ふふっと笑った。

ずっと取っておいた「檸檬」にも、この三行の短い手紙にも、二人で過ごして来た時間の全てが詰まっていた。まるで一つの「小説」のように。


夫がくれた最後の本は、
「文庫本」よりも小さい、この手紙だった。


私達だけの、
たった一つの物語が書かれた「小さな本」。


私は、夫が残した、
この「小さい本」と共に、生きていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?