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夢殿第四形態「秋涙」改稿上がり間近 ! お知らせとイントロ部分の紹介

わたしの短編作品としては最もスキを頂戴した作品。小説「秋涙」。
まだ書けそうだ。もっと書けそうだ。もっと優しく、もっと美しく、もっと儚くなれそうだ。そう感じながら改稿の手をいれていた。ボチボチわたしの今の限界が見えはじめてきた。

秋涙の初稿同様可愛がっていただければ良いのだが。
正直申し上げて、増稿改稿の手を入れ林芙美子文学賞への応募を考えていたが、糖尿病、急性膵炎、そして膀胱がん、心療内科案件などこの3カ月ほどグダグダになっていたことから、手の進みも芳しくは無かった。
 では、死ぬまでにはどうしても欲しいと考える「太宰治賞」に狙いを変えようかとも考えたが、何やらこれもまた潔さが感じられず、落ち着きが悪い

そんな今日この頃。e-pubooを見てみると、私の作品集のダウンロード数が117件に達していた。少し前に110件のお礼とご案内をさせていただいてから既に7件のダウンロードを頂戴している。
 これを見て私の考えは変わった。
「秋涙」の改稿版を早いとこ読んで頂けるようにしたい。別に賞に応募せずとも、ダウンロードしてまで読んで頂けている方たちにお届けしたいと思った。

ここnoteでは、秋涙のアクセス数は340ほど。
その内、118名もの皆さんにスキを押して頂いている。出来過ぎだ。これもまた感謝に絶えないのだ。

 さて、年内に美術芸術系のエセー集をe-pubooで出すことを公言しているのだが、"秋涙"の改稿版一作品をその中に綴じることとしたので楽しんで頂ければ嬉しい。

年内には必ず上げる。どうかお待ちくださいますように。
尚、秋涙の改稿版も「秋涙」のままとする。


題名  秋 涙(しゅうるい)・改稿版


                          飛 鳥 世 一
 その一 満と数えのいろは坂

奈良いうところは海がないところでしてなぁ…… 。
高等小学校の二年生… 、云うてもわからしまへんやろけどなぁ。せやから歳(とし)のころなら十一、十二歳(さい)ぐらいのことでしたやろか。明治も二十年になった頃合い。お父ちゃんやお母ちゃんにはじめて海を見せてもらいましてん。
 三人でお伊勢はんへと参ったときに鳥羽ちゅう宿場に留まりましてんけど、二階建ての宿屋はそれはもう法隆寺さんのご本堂のように立派に見えたものでした。
お父(とう)ちゃんがなぁ「お千代チョットこっちにおいで」ほう云うので、お父ちゃんの座ってはる窓辺にゆきますと、何色云いましたかいなぁ… そうそう、見事な桔梗色した海が一面に広がってましてなぁ。西に傾きかけたお陽さんを浴びはった海がキラキラ~キラキラいうて光ってましてん。
子供ながらに毎日こんな海が見られる三重のお人たちを羨んだものでした。
 宿屋の軒先では私よりも年下の子達でしたんやろなぁ、竹で編んだ輪を、棒をつこうて器用に回す、輪回しをして遊んではりましてんけどな、奈良ではこのころ既にブリキの輪がありましてん。せやから、輪回しと云えばブリキの輪を回して遊んでいたもので、こんな些細なところでも、あぁ~奈良に生まれて良かったと思ったのも考えてみりゃおかしな話ですやろ。

 鉄さんが描かはった画にも仰山(ぎょうさん)、海を描かはったものがありましてんけどな。私は鉄さんの海の画を鑑(み)るたびに鳥羽の桔梗色した海やお父ちゃんやお母ちゃんを思い出したものでした。そやったわぁ、あぁお婆ちゃんに叱られるわぁ。あのなお婆ちゃんがな、うちとこの柳行李の蓋にな、五合升摺り切り一杯のあずきはんを入れはるとな、こうして抱えると中腰のまま横に傾けながら振ってみせましてんけどな、その音がまた鳥羽の海で聞いた潮騒にそっくりでしてん。ザザザザァーッ、ザザザザーッちゅうてなぁ。お婆ちゃん、なーんも云わんとニコニコしながらわたしの顔だけを見て柳行李の蓋を揺らしてましたなぁ。わたしが陽射しのはいる暖かな縁側で昼寝におちるまで。お婆ちゃん疲れたんですやろなぁ。お座りしたまま柳行李の蓋を抱えて眠るように逝ってはりました。

 鉄さんがなぁこの昭和四十二年春、法隆寺の夢殿さんを描き上げたちゅうことで、法隆寺さんや鉄さんとの縁浅からぬお人達にむけてお披露目の展覧会が行われたのでした。

つづく

夢殿を可愛がってくれた凡ての皆様に心より御礼申し上げます。
世一


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