就学問題(娘の場合)
今度の4月に娘が就学を迎えます。
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「公立に通う?通わない?」
正直、私の中ではちょっと迷いがありました。
私が集団に入る前に身につけて欲しいと願っていた「感覚的なもの」を、娘がある程度身につけていたからです。
遊びから学ぶ今のスタイルは彼女の性格にピッタリだけれど、お友達と過ごせる公立に通ってみるのも悪くないのかな~?なんて。
でも、夫は「その感覚を身につけた娘を(今)集団に入れるのは勿体ない!」と主張しました。「失ってしまったら簡単には取り戻せないんだよ。」と。
最終的には本人の希望も汲んで「ホームスクーリング継続」という答えになり、学校にもその旨を伝えました。
今回はその辺の話を書いていきたいと思います。
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【感覚的なもの】
これは、モノの捉え方です。
公立学校のカリキュラム(【せいかつ】【理科】【社会】)は、「身近な街」から徐々に「市町村」「都道府県」「国」そして「世界」と子ども達の視点を広げていくように組み立てられています。
点から面、空間へと視点を広げていく物事の捉え方を習います。
対して、私が子ども達に伝えたかったのは
「広い宇宙」の中に「太陽系」があって、その中に「地球」という星があって、そこには「海と陸地」があり、それぞれに「人間がつけた名前」があって、「国」「都道府県」「市町村」「私達の街」がある…という捉え方。
まずは空間、そこから点へとフォーカスを絞る物事の捉え方です。
私は専門的に詳しく勉強はしていないのですが、この部分はモンテッソーリの考え方の影響を受けていると思います。
おそらく、どちらの捉え方でも最終的には同じような知識を得ることになるとは思います。出会う順番が違うだけ。
でも、「自分がまん中にいる世界」なのか「大きな世界の一部が自分」なのか、これは大きな違いです。
だから子ども達には太陽系の模型を地球儀より先に提示しました。
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「大きな世界の一部の自分」
これは私の感覚ではこういう事。
・だから、「ありのまま」でいい。
・だから、「目の前の全てが特別」。
・だから「過剰な自己主張」は不要。
・だから「争う必要はない」。
・だから「全てが愛しい」。
誰も気づかないような小さな影響かもしれないけれど、自分が存在するだけで確実に全体に「何か」影響を与えています。
だから自由であってよい。
ただし自分勝手であってはならない。
「全体」を意識できるかどうかが、この部分の理解に不可欠なのかなと思います。
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「争う必要はない」
平和な日本といえど、私達の世界は小さな争いでいっぱいです。
私はこの「小さな争い」を子ども達(特に娘)に「当たり前の事」と受け入れて欲しくないのです。
「競い」「争う」=競争です。
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「競う」
健全なそれは、悪い事ではありません。
これなくして人類文明の発展はあり得なかったでしょう。
「競争」
でも、相手が自分であろうと、別の誰かや何かであろうと「競って勝つ」喜びを気持ちも思考も未成熟な段階で知ってしまうのは何だか勿体ない気がするのです。とても刺激的ですから。一度そんな快感を知ってしまったら、本質よりも結果に思考が向かうようになります。これは逆もしかり。「負ける屈辱を味わいたくない」一心で…の学びも、ちょっと勿体ない。
もう少し大きくなれば、その辺のバランスもうまくとれるようになるのでしょうけれどね。
でも、集団の中では小さいうちから「競争」が日常的。指導する側の目線に立てば「大きな集団を楽しくスムーズに動かす為の便利なツール」でもあります。
例えば準備や片付け、移動前の整列時の何気ない言葉。
・誰が一番早いかな?
我が子は、この些細な言葉の先に何を見るのか。
その「ドキドキ」「ワクワク」はどこに向かうのか。
私はこの部分で、自分の子をなかなか信頼しきれなかったのです。
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さて。
ここまでは私の想い。
娘本人が4月以降もホームスクーリングの継続を希望した理由は、大人と違ってとってもポジティブ。
就園問題の時から一貫して主張している「好きな時間に 好きな本を 好きなだけ読みたい。」というのと、もう一つ。
「私には、地球平和を守る仕事(ゴミ拾い)があるから…。」
…ですって!
小学校高学年の時の担任の先生が
「学校はやりたい事を見つけたり、やりたい事をする為に必要な事を勉強したりするために通う場所。だから、早く見つかった人が無理して高校や大学に行く必要はないし、行った人が偉いって訳じゃない。」
なんて言っていたことを思い出しました。
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