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自分を守るために閉ざされた心

ここ数日、私は精神的にしんどい状況に晒された。

誰から見ても原因は自分にあった。

そんな過酷な状況下だからこそというべきなのか、私はここ3日ほどではっきり気づいたことがあった。

自分の心は自分を守るために閉ざされていると。


自分の気持ち

私は、外向的でありたいと思っている。

感受性豊かであるために、そして多様な価値観を持つためにアンテナを広く張ろうと考えている。

そのためには相手の人などからより多くのことを得るために、自分も常に心を開示しないといけない思っている。

自分が自己開示することで、相手がより心を開いてくれると考えているから。

しかし、その気持ちに反する形で私の心は固く閉ざされていると感じた。


私の心

私の心は、扉の陰からそっと顔だけを出して外を覗いている。

誰かが扉の前を通った瞬間、誰かの気配を感じた瞬間、慌てて扉を閉めて中に引きこもる。


知っている人や話したいと思った人であったとしても私の心はその人の目の前にはいない。

同じ空間に居られるようにこっそりしがみついているような感じ。



じゃあなんで、私の心は気持ちと反してそのような行動をとっているのか。

有力な仮説が自分の中にあった。

それは、心を開くことで私の心が疲弊するからである。

心を開くということは、様々なものによって晒される外の世界に心を置くということ。私の心は、心を閉ざすことで、自分の心を疲弊から守ろうとしていると考える。

別に話している人などと話すことに対してネガティブになっているわけではなく、自分の心のキャパシティが大きくないだけ。

あるいは、外に少し晒すだけで他の人の数倍疲れてしまうと思っている。


心や人とちゃんと向き合うこと

ここで問題になるのが、ちゃんと考えないといけない物事を目の前にした時である。

それがまさしくここ数日のことであったのだが、自分を保身するための行動に走り出す傾向があった。

つまり物事を十分に考えることなく、自分の心を過酷な環境に晒し続けることは危険だからといってとりあえず心を閉ざす。他に、極端に自分の都合のいい意思を押し通そうとするといった衝動に駆られる。


大学院の研究生活などでは考えることに対する苦痛などを感じることはなかったことから、私の心は自分や他人の感情により左右されるものであると考えている。

「〇〇の立場に立つと…、〇〇のことを考えると…」

という、理解することが不可能に近い「人」のことを考えることで一気に精神的に参る。


私はもうすぐ社会人だ。

これから慣れないことを多く経験する中で、不快な状況や過酷な状況に置かれることが考えられる。そもそも自分をしんどい状況に置かない行動を心がけるべきであるだろうが、そんな自分にとって不利な状況に直面するたびに、過度に自分を守っているばかりでは何も変わらない。

心身健やかであることが1番であるとは思うが、リスクとリターンのバランスも考えてみてはどうだろうかと自分に提案する。

自分を守るために、反撃・攻勢に転じてはどうだろうか。

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