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友人と擁護と客観視と

前に友人の会話を聞いていてこんなことがあった。

「AとBが喧嘩しているけど、Aのことを庇いたい」
それに対してもう一人の友人は、
「Aを庇うのは知っている人だから当たり前ではないか」

え、知っている人だったら庇うのは当たり前なのか。
どんな背景があったのかなどを知った上で立場を決めないのか。

私はそう思ったことから今回の話は始まる。


とりあえず自分の知り合いなら庇うのか

私だったら、たとえ知っている人でも背景の事情を聞いてから庇うことを決めるなと思った。

自分が知っている人だったら庇って当たり前。
自分がより交友関係が深い方を庇って当たり前。

その当たり前が、私が感じた違和感である。


自分の知り合いでも指摘はしないのか

私は他の点においても客観視しすぎていると感じる時がある。

例えば知り合いのCと赤の他人のDが喧嘩していたとする。

双方から話を聞く。第三者から話を聞くなどして背景の事情を理解し、自分の結論としてCに非があるとなったとき。

私はたとえCが知り合いでも、機会があれば、悪いと思うところは一個人の視点として伝える。

そして自分の中の結論はその人に対する評価に影響する。
それまでにいくら深い交友関係が築かれていたとしてもちゃんとマイナスに作用する。

簡単に言い換えると、「こういう悪いところもあるけど、〇〇さんのこと好きだから…」とは私はならない。

しかし一生そのような目を向けることはなく、
その後の振る舞いや行動などを見て、
マイナスだった評価が撤回されることはある。


庇うこと客観視と優しさと

私が今回気になったのは、「知り合いだったら事情関係なく庇って当然」という友人間で確認することができた風潮。

そして悪いところを棚上げしてその人を庇うことに対する意味。

私はどうしても対人関係において、序列をつけて贔屓をするとかができないらしい。

あるいは、知り合いだからという理由だけでその人を庇うほど、人として情に溢れてはいないらしい。

あくまでも客観的視点を貫いて、自分の価値観に則って判断する。

これがいいことなのかは正直わからない。
「友達だから〇〇する」という関係もいいのかもしれない。


この1年間結構自分の中で物事の客観視を重要視した。

そんな1年の最後に、人と違う考え方をしている点の発見。

そして背景には、客観視を貫いていることが関係していそうであること。さらにそこから自分の人間関係におけるドライさが垣間見えた気がした。

そのことに少し胸が痛んだ。
そんな話を今回は選んだ。

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