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「〇〇のことを思って言っている」に優しさはあるのか

「私は〇〇のことを思って言っている」

そう言われたらどう思いますか

私の意見として
仮に本当にその人が相手のことを思って言っているとしよう
だがその言葉に優しさはないと思っている

今回は言葉にうんざりしている話


最近多くの考えに触れる中で嫌いになるものが増えている

まだ下書き段階で止まっているが

「知らない方がいいパラドックス」みたいなものにも陥っている

簡単に言うと 物事を自分の力で理解したいと思い行動する
それは自分がそれを望んだから

しかし 理解を進める中で
様々な物事やそれに関する人の意見にも触れる

それは決していいものだけではない
攻撃的なものも多い

それによって「こんなこと知らなければよかった」
と思う現象に勝手に自分が今適当に名付けたものだ


話が逸れた
本題はこれではない

嫌いになるものが増えている背景には
「私は〇〇のことを思って言っている」
と主張する人を見かけることが増えたことが一因と考えている

私は「私は〇〇のことを思って言っている」
と主張する人をあまり好きになれない

それでも好きになれるか なれないかの境界は1つあると思う

それは「私は〇〇のことを思って言っている」と言っている本人が
自分のその発言に 自分の価値観が
少しでも混在していることを理解しているかどうかだ

私自身「私は〇〇のことを思って言っている」
と言う発言に100%の客観はないと思っている

1%でもその人の主観が混ざっていると信じている

100%の客観ではないということは
無意識でも価値観の押し付けが存在していると考えている


なぜなら
「私は〇〇のことを思って言っている」

と言うくらいなのだから
自分の経験や他の人の意見など総合的に自分の中で形成された価値観が
影響しているはずだからだ

そこに主観のない100%の客観なんて存在するのだろうか


私自身「私は〇〇のことを思って言っている」と言う言葉は使わない

あくまで自分の経験で伝えられることがあれば
その経験を相手に取捨選択してもらいたいと思う

だから「私は〇〇のことを思って言っている」とは言わず
「自分はそれに関してはこういう経験があって…」

としか言わない
押し付けもしない

その結果相手が
「背景から現状まで自分と似ているな 参考にしようかな」
と思ってくれるのであれば嬉しいと思う


「私は〇〇のことを思って言っている」

その言葉に あるいは価値観の押し付けと捉えている私と違い
その言葉を善意として発する人は同じことを言われた場合何を思うのだろうか

その発言を私も全否定するつもりはない

だが人のことを思っているという発言に
自分の価値観が反映されていることだけは忘れてはならないと思う

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