見出し画像

自分が人に与えるものは自分が求めているもの

「今日話したことはなんだったっけなあ」

この日記はそんな文章から始まっている
ある日受けたカウンセリングの話について記されてる

確か図星を突かれたことから始まったと記憶している
どんな図星をつかれたかは都合が悪いから忘れた

まとまった話ではなかったが
私からした話は大きく3つに分かれていた

①人からどう思われているか気になる過ごし方をしている話
②自分が受け入れられない考え方を持っている人を嫌っている話
③自分が普段どういう姿勢で人との会話をしているのかという話

こんな感じの3つを話している中で

「自分自身が自分がこんなに考えて行動しているのに 他の人は考えている感じがせず自分ばかり損している」という理不尽な感情

自己開示したら相手も自己開示してくれるだろうという自己開示ハラスメントといった思い込みをはじめとする「人との距離感がわからなくなっている」という迷子の感情

(あと1つ悲しい感情を書いてたけど今の自分では理解できなかったので割愛する)


これらの感情は私が感じている
この世の理不尽に対する文句を訴えているかのように
私が書いている文章から私は感じた

カウンセリング当時は考え付かなかったこと まとまっていなかったから話していないことが続けて書かれていた

どこかで自分の考えをわかって欲しい
わかる人がいて欲しいと思っていたり

この人はきっとわかっているのではないか
この人にわかって欲しいと思っていたり

人との会話に執着する自分は
人に理解を強要するどこか藁にすがる姿ではないか

同時にその姿が見えると自分が他の人に対して否定せず受け入れるというスタンスは 他の人のためではなく自分のためにしているのではないか

と思わずにはいられません


「自分がこんなにしているのに何で他の人は」
という抱いている感情

そして一方でその感情を抱く理由として
「自分が他の人から 自分が他の人にするような扱いをして欲しいと思っているのではないか」

この2つの側面があると自分で考えているのは我ながら今読むと興味深い


この文章は半年たった今
後者の願いの側面は失われていると思う

その理由としては
「人に対して期待しない そしてどこか諦めたから」

と1ヶ月前に私が話していた ってカウンセリングの先生が言っていたのでそれを今の仮説にする

自分が人に与えるものは自分が求めているもの

「世の中自分みたいな人ばかりではないか」
「人はきっと自分がしたことを返してくれる」

理想主義に近い 淡い期待を抱かないようにし
自分が傷つかないことを願ったのだろうか

この諦めるということほど
悲しいことはないのではないか

今は1ヶ月前の自分とは真逆の思いがある

今そう思うのはきっと 
「人に期待していいのではないか」
そう思える会話が今日できたからではないだろうか


↓↓↓他のカウンセリング談↓↓↓

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?