俺の人生を変えた、KENという男との出会い 中編
前回まではKENとの出会いまでを書きましたね。
冒頭で述べた通り、彼と僕は今年2024年で、16年の付き合いになります。
彼がいなければ本気で音楽をする事になりませんでしたし、
それだけKENという存在はAZNIGに取って
「重要なキーマン」である事は間違いありません。
その理由はあとで(話せる範囲で)述べる事にします。
__さて、話は遡り2009年。シドニーに来て彼と知り合ってから1年が経ち彼から「ルームシェアをしないか?」といわれました。(恋人かっ)
考えてみれば生活の殆どをホームステイに費やしていたのでそろそろかなと思い、KENとDADDYとIWAN、そして俺の4人でルームシェアをし始めました。
※僕以外は全てインドネシア人。
IWANは今インドネシアの喫茶店社長。
住み始めた場所はerskinevilleから変わり、central駅周辺のsurry hillsという超白人主義都市で、
かつスラム街というとんでもない場所に移りました。
そりゃーとんでもない差別を毎日受けましたよ。
それでも何とか生活はしましたけど。
この辺りからはラリアに対して良いイメージは沸かない生活でしたね。
ライブもデスコア界隈は本当ひどかった。毎回ペットボトルを投げられながらライブしてましたよ。
まあただね、KENとの生活は毎日が楽しかったし、沢山面白い事もしました。ストリートバスケしたり、貧困者用フードコート行ったり、安い紙巻きタバコシェアしたり。
…一方で大学はアカデミックではなく学士だけさっさと取って帰りたかったので勉強はまあそこそこ頑張りました。その辺のワーホリで身内で固まった日本人連中よりは必死にやりました。
そんなこんなで紙一枚の卒業証明書を手に2011年初旬に日本に帰国する事になります。人種差別してきた教授だらけの大学だったんで、証書もらったらすぐ帰りました。
そんな感じで
「2008年〜2011年までの短い大学生活の間の仲か。楽しかったな。まあバンドはもう疲れたからいいや。」
という満身創痍の中帰りのフライトで過去の思い出にひたるのでした。
後日KENからは「俺はシンガポールの会社に内定もらった。お互いまたいつか会おうな」とFacebook申請が来ていました。
自分はいわゆるバーニングアウト(燃え尽き症候群)で軽い鬱を発症しており、
その頃は自分が何をしたいのか分からなくなっていました。就活すらする気力はありませんでした。
後編?に続きます!
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