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『大河の一滴』五木寛之

教材研究中の道草

五木寛之氏の『大河の一滴』の一部分が、私の使用する副教材に掲載されていました。

https://www.amazon.co.jp/大河の一滴-幻冬舎文庫-五木-寛之/dp/4877287043

ワークブックで随想文の読み方の練習問題になっていたのですが、この文章を読んでいて自分の大学時代のことを思い出したのでnoteに残しておこうと思います。

本文は「筆者にとって方言とは何か?」ということがテーマになっている部分です。

「最初、九州から出てきて、東京の人たちのかろやかなおしゃべりを聞いた耳には、自分のしゃべりかたがじつに不細工で野暮ったく、不思議で野蛮なものに感じられて」というところから始まっていました。

ここで、あ~、確かに私も大学生のとき、はじめて東京で暮らしたときは、自分の言葉が浮いている感じがしていたなあ。などと思いだしました。

とはいえ、関西弁(のようなことば)を話していた私は、筆者同様「野蛮な」話し方をしているとは思いながらも、比較的その当時も堂々と方言を使っていました。

同じ講義を受けていただけの知らない子たちが、サークルの交流会か何かで、あるとき「大阪弁の子」として前から私のことを認識していた、というようなことを話してくれたこともあり、一人で田舎から飛び出してきた私は東京暮らしに関西弁を大いに活用していました。

『大河の一滴』に話を戻します。

本文の中で、筆者のご両親が敗戦後の引き揚げで、思い出になる形見の品のひとつも残されなかったが、自分が話しているときにご両親の話し方を感じることがある、〈言葉〉というものが親やもっと前の自分の血のつながった人たちから自分に託された大切な宝物だと感じる、といった文章がありました。

この文章を読んだときに、ふと、大学時代のいつだったか、東京生まれ東京育ちの友人が、「方言っていいよね!私は、方言とかないからさ、『地元に帰ったら訛りがきつくなった』とかすっごい憧れる!!」と私や他の地域の方言話者の友人に話していたことを思い出しました。

当時私は、自分が関西弁(のようなもの)のおかげで大学で目立てていることをやや鼻にかけている部分があったようなところがあったのですが(笑)、その自尊心?を超える誉め言葉をもらったように感じ、ろくな返事もできなかったのではないかと思います。

なんとなく「方言をリスペクトしてくれる人がいるんやなぁ…」という掴みどころの無い感想を抱いていたのですが、筆者の文章を読んで気づきました。

筆者のいう「〈言葉〉」は「父や母や、あるいはもっともっと前の自分の血のつながった人たちから、ぼくに託された大切な宝物」という感覚を、友人は私たちが話す方言から感じ取っていたのではないかと、今になって理解できたような気がします。もしそうだとしたら、言葉の研究を専門にしていた私たちの中で友人の言語的なセンスは(少なくとも私よりは格段)高かったのだと思います。

自分の言葉について

私は関西弁〈のようなもの〉を話しています。大阪の人からしたら「大阪弁とは違う」、実家の三重の人からしたら「三重弁(こんな言い方はあまりしないが)とは違う」、関西以外の人からしたら「関西弁」を話しています。

自分の話す言葉の中で、「あ、これは大阪、これは伊賀、これは東京、これは沖縄、これは三河、これはどこどこ…」と特に感じるイントネーションが自分の言葉の中にはあります。厳密にいうとどれも本当かどうかはわからないのですが、私の中ではそう区別される言葉があります。

大阪生まれ大阪育ちの両親に育てられた私がどうしてこんな話し方になったのかというと、確実に、友人の影響です。

今まで出会ってきた、私に影響を与えてくれた友人の言葉が伝染っているのだと思います。

変な話し方をするようになったので、父には不思議がられたこともあります。そういう点で、父は耳がいいのだろうと思います。私もどちらかというと言語感覚的な耳はいいほうだと思うので、遺伝だとしたら父に感謝です。

話を戻すと、堂々と「関西弁」と言えない変な話し方なので、私もときどき恥ずかしくなることがあります。でも、今回の文章を読んだあと、「両親から託される大切な宝物」として方言をとらえるのであれば、私の個人方言は「友人からも託された宝物」として大切にしてもいいのではないかと感じました。


【やることメモ】外出が自由にのびのびできるようになったら、私に方言を伝染してくれた、大学卒業以来直接会えていない東京の友人に、子供ができてなかなか会えなくなっている地元の友人に、去年の夏偶然再会した戦友たちに、会いに行く。

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