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『自分を大切にする』の解釈

今回は、自分を大切にするという概念の個人的解釈をメモにしていく。

自分を大切にしよう
こう言われて、肌感覚でどうしたらいいのかわかる人はこの先を読む必要はない。読むのは自由だが、その時間で自分を大切にする何かをしたほうがいい。

自分を大切にするとはなんぞや?
と悩んでいる人は、この先を読む意義が少しはあると思う。

自分を大切にしてね

あまり人から大切にされないので言われた回数こそ少ないが、僕でも何度かはこの手の言葉をかけてもらった経験がある。

言った人からすれば思いやりなんだろう。
しかし、こう言われても僕は具体的にどうしたらいいのかがよくわからなかった。

自分を大切にするとはどういう行為を指すのだろうか?
良く寝ればいいのか、たくさん食べればいいのか、はたまた何か好きなことに没頭すればいいのか…。
自分を大切にするために必要な行動がよくわからないのである。

前職で壊れた時に言われた際は、具体的な行動がよくわからず胸をさするしかなかった。何となくさすれば労わっていることになるんじゃないかという理路からの行動だ。

こういう事を書くと、自分を大切にする方法すら知らない不幸な人アピールみたいに取られてしまうかもしれないが、本当によくわからないのだ。

僕と同じように、
自分を大切にするってなんだよ
と疑問を抱いている人は多いはずだ。
…多いよね?

しかし、世の中の元気な人たちはこれを自然と実践しているんだろうと思う。だからこそ、こちらからすると意味が分からないくらいに元気で活動的で、消えてなくなりたいなんて思いもしないんだろうな、と考えた。

出来る事ならあやかりたいので、自分を大切にする方法を考えていた。

その結果、おそらくだが、
『自分が何をすれば癒されるのか、回復できるのか』
を把握して、それを自然と実行することなんじゃないかと考えた。
たぶん、生育過程で自然と身につける人が多いんだろうなと思う。
具体的な方法が明示されず、フワッと言われるのはそのせいなんだろう。

だとすると、好きな食べ物や趣味のように、それこそ人によって答えが違うはずだ。甘い物を食べる、旅行に行く、ドライブする、アニメを見る、読書をする、それこそ様々なはずだ。

物で例えるなら、
故障しそうな時にどこをどう調整するか、
故障したらどうやって直すか。
のようなマニュアルが個々にあって、自分を大切に扱う方法は千差万別なんじゃないかと思ったわけだ。

この考えを僕にあてはめた場合、調整や修理、いわば回復は何にあたるのだろうか。まずは、何をすれば回復できるのか、どの工具が必要なのかを考えなくてはならない。

手持ちカードに回復はあるか

僕は何を回復手段としていたのか、すればいいのか。

例えば、こうして文章を書くのはどうだろうか。
飯の種として書く文章はともかく、こうして好きに文章を並べていくのは嫌いじゃない。自分の考えを整理して更新していき、それが誰かの役に立つ可能性を秘めているなら喜ばしいとも思う。
誰も不幸にならない(はずの)建設的営為で、やっていると自分が許される気にもなる。

しかし、許されるという発想が出る時点で、自分を大切にする行為からは逸脱している気がする。

他の趣味といえばゲームとか漫画とかアニメとか、何かしらの創作行為が該当するが、
それも変な義務感(やらなきゃ、読まなきゃ、見なきゃ、つくらなきゃ)からやっていることも多く、そういう時は逆に負担になっていた気がする。

ではパチンコはどうだろうか。
僕は何も考えたくない時にパチンコを打つことがある。
機種はだいたいエヴァで、ここ数年は同じ機種をずっと打っている。
楽しくはあるが、パチンコという行為が自分を大切にすることに繋がっているかといえば、違う気がする。
というか、むしろ逆ではないかと思う。
金が増えるか減るかのひりつきと、消極的破滅願望に身を任せているだけのように感じるのだ。

僕の行動の大体は、変な義務感にかられての行為と、精神的自傷の域を出ないように思えてくる。
仕事に関しても気楽にやってる風を気取っているが、内心では焦燥感にまみれている。
(そのせいか、最近は期限に間に合わないとか警察から逃げるとか、そういう夢ばかり見る)

結果、僕の生活パターンに自分を大切にする行為は含まれていない、
もしくは回復手段を自分で認識でいていない、
という結論に至った。

なぜならいつも辛いからだ。

回復手段の模索


自分を大切にするというのは、個々人が持つ回復手段を行使すること
現状の僕には回復手段がほとんどない、もしくは把握できていないこと

正解かどうかは別として、ここまでは考えを掘り進めた。

回復手段がない場合は見つけるしかないし、把握できてない場合は模索するしかない。
つまり、手探りでやっていくしかないという結論に至った。

模索といっても、急に夜のお店に行くとか、新しい趣味を無理やり始めるとかではない。

まずは日常生活で無視していることをやってみようと思った。
勘でしかないが、回復手段は身近にあると感じたからだ。

具体的に何をしたかというと、人によっては呆れるような内容だ。

①お腹がすいたらご飯を食べる
②食べたい物があったら少し高くても買って食べてみる
③お風呂に入る

今のところこれだけである。

説明不要だが自分に言い聞かせるため、記録に残すために改めて書いていく。

①についてだが、僕はセルフネグレクターだ。
特に食事に関してはめんどくささも相まってスルーしがちである。
よく食べたとしても1日2食だし、ひどいと固形物を口にしない。

空腹は感じるが、食事をするめんどくささには勝てないという状況だ。
胃が空っぽな状態に慣れてしまった部分もある。

しかし、空腹に慣れるというのは、人として生物として、なかなかに悲惨なんじゃないかと思い直した。
なので最近はこまめに食事をとって、空腹を満たしている。
少し高いが、食べやすいフルグラを買ったりした。

お腹が減ったという肉体のヘルプに、ちゃんと応えることが自分を大切にする一環になるのではないかという考えである。

そして②は①の発展形だ。

生活において食事を重視していなかったため、買い物の時も美味いとか食べたいとかを差し置いて、安い物を優先していた。
慣れ過ぎて苦しいという自覚もなかったが、これも自分を粗末にしているんじゃないかと思い直したのだ。

なので、
買い物の時間を多めにとって、
目に留まった食品を眺めてみて、
食べたいと感じたらなるべく買って食べてみる

というステップを試してみている。

そのおかげで最近は買い物の時間がかかりがちだが、そこまで悪いことじゃないだろう。節約のために安い物でやりくりするのはおおむねいいことだが、毎回そうだと心によくない気がする。

そして③だが、これは我々風呂キャンセル界隈の永遠の課題である。

毎日風呂に入れる健常者からしたら意味が分からないと思うが、風呂に入るにはエネルギーが必要だ。

風呂キャンセル界隈という言葉が出た時期にこんなポストがバズっていた。
風呂のどの辺が嫌なの?と歩み寄る内容だが、違う、そうじゃない。

具体的にどの行動が嫌いとかじゃなく、風呂に入るために立ち上がる力がないのである。実際、僕は①~⑦のどの工程も別に苦痛ではないし、風呂に入るのはむしろ好きだ。

それでも風呂に入るという行為に移るのは大変である。
気づけば最後に入った日を思い出せなくなっているし、風呂に入るのは体のかゆさと臭さに耐えかねてのことが多い。
悶々として風呂に入らず、時間を無駄にするのも日常茶飯事だ。

これはよくない。
風呂に入るのは大変だが、入らないと自分を粗末にすることに繋がる。
なので、大変なステップをどうにか踏み越えて入るようにした。
(ここ数日はメンタルが粉々で汚物になっていたが)

風呂に入ればトータルで気分はマシになる、
自分の手入れになる
と思って、風呂の頻度を増やしているわけだ。

最近はアイスを買いこんでおいて、風呂上がりに食べる習慣もつけた。
ご褒美をつければ、少しは風呂に入ろうと思うんじゃないか……というささやかな風呂キャンセル欲への抵抗だ。

ちょうどよく、お気に入りだったスーパーカップのブルーベリーヨーグルト味が再販されているので、冷凍庫に何個か常備している。
②の出費を気にせず食べたい物を買う、との合わせ技だ。

で、大切にできたの?

とまぁ、3つほど当たり前といえば当たり前のことを意識して生活しているわけだが、自分を大切にできているかといえば微妙なところだ。

僕のメンタルは

我慢して活動→弱って活動量低下→→活動量低下で自己嫌悪→ブレイク

の流れを周期的に繰り返しているので、長期的にどう変わるのかを把握するには、もうしばらく期間が必要だと思っている。

しかし、食事をとると力が湧く気がするし、食べたい物を食べている時はなんとなく満足だし、風呂に入る達成感と入った後のさっぱり感も悪くないので、先述した当たり前の3項目は続けてみるつもりだ。

こういう当たり前のことを継続して、自分の出力を一定に保ち、たまに出力が上がるイベントを用意してあげたりするのが、みんなの言う『自分を大切にする』ことなんじゃないかと思うようになった。

そのためにはある程度のお金がいるので、適度な仕事量とストレスとのバランス感覚も必要になるだろう。

課題だらけだが、とにかく少しずつ自分を大切にする、もとい人間らしい生活をやってみる、をモットーに行動してみるつもりだ。

今度は、少し高いパンでも買ってみようか。

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