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「恩知らずの闇子さん」試し読み

文学フリマ東京36に出展するものです。


第一章「こんにちは闇子さん」

 梅雨の季節だというのに、今日一日、ぽかぽかの天気になりそうな朝のことでした。
 わたくしは、通学するため、バスを待っていました。だんだん陽気になっていく空に、思わず大きくあくびをします。後ろで並んでいる数人のサラリーマンも眠たそうに目をさすったり、大きく背伸びをしています。これだけの天気です。気持ちが良いに決まっています。
 
 そのときでした。
 
「やあ、都子お嬢さま、おはようございます!」
 やけに明るい声でわたくしの名前が呼ばれたので、びっくりしながらも、振り返ります。
 そこには、うちの道場で一番強いとされる轟さんがいました。ガタイはかなり良く、学年平均より背が高いわたくしよりも二十センチは高いでしょう。目は恐ろしいほど鋭く、威圧感が強い人物で、それゆえ、怖くて、会話もしたことがほぼありません。
 それに、わたくしは中一、轟さんは高二。通っている学校も違えば、学年も違います。なので、轟さんに会うのは、道場以外でははじめてです。通りかかりでしょうか。偶然なんてあるものなのですね。
 そんな轟さんは、威圧感のあるイカツイ身体をクネクネさせ、鋭い顔をニヤニヤさせています。
 かなり、不気味に感じますが、イヤな顔なんてしたら、おそらく轟さんは傷つきますでしょうし、うちの道場の評判も悪くなるでしょう。そうなれば、道場を取り仕切る養祖父の機嫌が悪くなるに違いありません。
 わたくしは笑顔で対応します。ぽかぽか天気で気分が晴れやかになりそうだったのに、心にはヒョウがふってきました。この不気味な笑顔についていくのにはつらいです。
「朝からお嬢さまのような絶世の美少女に出会えるなんて、ぼくはなんてラッキーなんだ! 長い黒髪に瑠璃色の二重の瞳、すーっと通った鼻筋。そして透き通った美しい肌……! 奇跡の美少女の都子さんは最高ッス!」
 恐ろしいほど、目をらんらんと輝かせて轟さんはわたくしの手を握ります。轟さんの手は汗ばんでました。ぬめっとしていて気持ちが悪いです。
 どうしましょう、この状況。あまりのオーバーな轟さんの表現に、周りの視線が刺さり、胃が痛いです。吐き気を覚えるぐらいです。
「あ、バスが来たから乗りますね」
 ああ! 良いタイミング! わたくしの胃は救われました。
 轟さんの手を振り払うと、周りの白い目から逃げられたうれしさのあまり、天国に登る気持ちでバスに乗り込みました。

 座席に座り、アルコールのウェットティッシュで手を拭いていますと、プリーツスカートのポケットに入っているコンパクトミラーがカタカタ震えはじめました。
「なんですか、闇子?」
 色とりどりのビーズが蝶のかたちにちりばめられたコンパクトミラーを開けました。普通、鏡というのは左右逆の自分の顔が映るものです。しかし、この鏡には口を押さえた「わたくし」が映っています。
「なんて気持ち悪いヤツ。気色悪い。ヤバい」
 鏡に映った「わたくし」――「闇子」と呼ぶこの鏡に取り憑いている悪霊――が悪態をつきました。闇子はポケットの中からでもわたくしの目を通して物が見えるそうです。だからさっきのやりとりも見えていることになります。
 闇子は、口が大変悪く、まるで不良です。かといって、悪い子ではないのは確かです。しかし、様々なやらかしで、わたくしの評判をよく下げます。どうにかしてほしいのですけど、最近は諦めモードです。
「そんなことを言ったら轟さんに申し訳ないです。確かに気持ち悪いですが、ただ容姿を褒めて貰っただけですよ。何もされていません」
 わたくしは鏡の中の闇子に微笑みかけます。
「だから! それがキモいんだって! 可愛いねレベルならまだ分かる。まだ、な! でも通りがかりの知り合いに、容姿を細かく褒めて、手を握って、ニヤニヤするって、完全にヘンタイの域だぜ! ストーカーに片足ツッコんでいるぞ!」
「そこまで言わなくていいですのに。あれでも、うちの道場で一番強いんですよ」
「それが末恐ろしいんだって言っているんだ! てめえのジジイはヘンタイをコレクションするのが趣味なのか? 今は手だけかもしれないが、次、何があるか想像してみろ! 都子! 危機感とかそういうの皆無なのか?」
 闇子は頭を抱えました。そこまで考えるほどでしょうか?

「ねえ、都子。都子って彼氏がいるの?」
 放課後、親友のそばかすが印象的な中嵜鈴がお下げを弄りながらとんでもないことを聞いてきました。思わず飲んでいた甘い缶コーヒーを落としかけます。危うく本にシミがつくところでした。
 ここは文芸部部室。本棚がいくつか並んでいて、簡素な席があるだけの地味な部室です。晴れているので、今日は窓もカーテンも開放しており、久々の明るい日差しと心地良い風が入ってきます。大変、気分が良いです。人が多いと疲れるタイプなので、鈴と二人きりなのも尚更良いです。
 読書会――お菓子をかじりながら好きな本を読んでいるだけの時間――で、わたくしは、昔に書かれたジュブナイルSFの小説を読んでいました。
 せっかく、世界観に浸っていたのに、突然、変なコトを聞かれたのです。驚かないはずがありません。
「い、いるはずないでしょう! わたくしはまだ中学生ですよ! そういうのはちょっと早いと思うんですが!」
 わたくしは少しこぼれたコーヒーをアルコールティッシュで拭きながら反論しました。
「うちの兄者が言っていたんだけどさ、兄者と同じ高校に通っている轟っていうヤツが都子のことを、おれの彼女だって自慢していたらしくてさ」
 鈴は、わたくしをまるで見世物のように楽しげに見たあと、チョコ菓子のシミシミチョコーンの小袋を開けます。時々思うことなんですが、鈴はわたくしをどういう感情で見ているのでしょうか?
「轟さんを知ってはいます。うちの道場のお弟子さんですよ。でも恋人関係ではありません。会話なんてしたことないですし」
 我が家は古武術の家元で、結構長い歴史があり、弟子も多いです。そのなかでも轟さんは強さの格が違います。その強さのため、風の噂で、フィアンセがいるとか、そういう話も聞いていますが……。もしかして、それはわたくしのことでしょうか? 冷汗三斗。どうしましょう! あんな気色悪いヤツはごめんです! 絶対に死んでもイヤです! どうかわたくしの早とちりでありますように!
「そういう関係でないってワケね?」
「もちろんですよ」
 返事するのが精一杯のわたくしに、
「そいつは都子のタイプとは思えないし、そもそも都子はそういうのに興味がない気がしたのよね。だから確認しただけ。信じていなかったから安心して。帰ったら、兄者に報告するよ。ありがとさーん」
 鈴はわたくしの焦りに気がつかないようでした。最後のチョコをかじります。自分の不安と冷や汗がバレずに済んでホッとしました。

 
 長い一週間が無事終わりました。最後の小テストの結果が多少悪くなっていたので、若干落ち込みながら、バスを降りました。
 空を見上げると、素晴らしく夕焼けが赤く染まっていました。朝に比べ、涼しい空気が心地良いです。あまりの美しさに、惚れ惚れし、大きく深呼吸をします。
「なあ、都子」
「なに、闇子」
 ポケットの鏡から闇子はわたくしの感動を邪魔をするかのように、話しかけてきました。
「もしかしてこの土日は勉強漬けにしようって思っていないだろうな?」
「今はそんなこと関係ありません。キレイな夕焼けを見ているんです。邪魔しないでくださいませんか?」
 わたくしは闇子のいるポケットを三回叩きます。
「あたしだって、キレイだと思っているよ。こんな見事な赤い夕焼けは久々だ。でも、それとこれとは違う。先週だって、夜十一時まで勉強していただろうが。いつか身体を壊すぞ!」
「あの、闇子。お言葉ですが。悪霊に身体の心配はされたくはないんですけど」
 わたくしはキツい口調で反論しました。闇子は押し黙ります。闇子は口が悪いわりに、正論には弱いタイプの女の子です。
 
「都子お嬢さま!」
 わたくしを呼び止める声がしました。もちろん振り返ります。
 轟さんが不気味な微笑みでこちらを見ていました。周りには見たこともない怖い表情をしたイカツイ高校生が何人もいました。金のチェーンネックレスや、ブレスレットやら、ピアスやら……。一体どこで売っているのか、どこで髪を切っているのか、教えてほしいぐらいの悪趣味な服装や装飾品や髪型をしています。せっかくの美しい夕焼けがだんだん暗くなり、空気が濁っていく感覚に陥っていきました。
「ああ、夕焼けに染まるその美しい肌! 世界中の美を結集したようなそのお姿!」
 わたくしの容姿を細かく褒め称えます。
「やっぱり、こいつ、気色悪い。ネジがぶっ飛んでいやがる。頭、どうかしているぜ」
 わたくし以外には聞えないことを良いことに、鏡の中の闇子は好き勝手言ってきます。そこまでボロカスに言わなくても良いですのに。まあ、実際に轟さんは本気で気持ち悪い人間ですが。
「この子、轟さんの彼女なんですよねえ。本当に可愛い子だな! うらやましい!」
 金のブレスレットの取り巻きがヘラヘラした顔で轟さんに尋ねます。
「ああ、そうだろ!」
 轟さんは躊躇なく答えました。そう簡単に答えるな! と大声で叫びたかったのですが、そのニヤついた表情は、わたくしのすべてをコントロールしたがっているようで、それが非常に怖くて、全身がその場で凍り付いてしまいます。
「なら、もう、キスぐらいは出来るんでしょー。やってくださいよ!」
 派手なピアスの取り巻きは口笛を吹き、冷やかしてます。
「ああ、それもそうだよな」
 轟さんはオーラルケアスプレーを口に二回吹きかけると、わたくしの腕をずんむと掴みました。痛いです。顔をしかめます。しかし、そんなわたくしの表情を気にせず、轟さんは目をぎらつかせながら、わたくしの頭を抱え、身を引き寄せてきました。顔がだんだん近くなっていきます。この状況には恐怖しかないです。これ以上は死んだほうがマシだと思ってしまうぐらいの恐怖でした。このまま、心臓が止まってくれればいいのに! そう思うほどです。
 奥手のわたくしにはこういう状況にどうすれば良いか、正直、分かりません。逃げたくてたまらないのに、足がすくみ、腰がひけ、頭が真っ白になりました。
 その瞬間、わたくしの目の前は真っ暗になりました。
 視界が戻った瞬間、わたくしの「腕」は轟さんの顎に向かって振り上げていました。拳は顎に入り、轟さんは倒れます。
「見事なアッパー……」
 取り巻きは全員青ざめていました。
「この! ドヘンタイ! この、タコ! カス! ドクズ! 人の気持ちを考えろ! バカ!」
 わたくしの「身体」は、そう叫ぶと、そのまま家に向かって走り始めました。

「ちょっと、闇子。勝手にわたくしの身体を使わないでいただけませんか? しかも下品な言葉なんて!」
 今の状況を雑に説明すると、闇子がわたくしの「身体」を乗っ取り、わたくしの精神を鏡の中に押し込んでいます。自分の「目」を見て周りの状況ぐらいは分かりますが、身体の主導権は完全に闇子が持っている状態です。
「お言葉だけどさ、あたしはてめえの貞操を守ったんだぜ。あのままじゃ、どうなっていたか、想像ぐらいしてみろよ。少しは感謝してほしいぜ!」
 自室で鞄を置いた闇子はコンパクトミラーを開き、鏡の中のわたくしを見ます。確かにそれもそうです。彼女の言うことがもっともです。
 ファーストキスぐらい自分で決めたいです。
「そこはお礼をいっておきます。ありがとう」
「まあ、自分の身体は大事にしておけよ」
 闇子は顔を赤らめました。

 闇子は机に座るとわたくしの身体でスマホをいじり始めました。最近始めたマンガ原作のゲームアプリで奇抜な格好のキャラクターを操作していくカードゲームです。闇子はいわゆるゲームオタク。対戦系で負けたところを見たことがありません。まあ、わたくしの身体でゲームをやっているので、実際はわたくしがゲームオタクと不本意に思われているのですが……。このスマホゲームも無課金でなかなか強いレベルまであげています。変なところでコツコツやる子です。どこか自分と重ねてしまいます。
 ゲームが終わったらしい闇子は、制服のまま新緑色のベッドの上に大の字になりました。
「ねえ、闇子。いい加減身体をかえしていただけませんか?」
 机に置かれた鏡越しに闇子を見ます。
「寝るって言う行為を久々にさせてくれよ」
 闇子は酷く疲れた様子で大きくあくびをしました。確かに悪霊には肉体がありません。寝るという行為をする必要がないのでした。考えたことがなかったです。今度、どういう意味か聞いてみるのも面白そうです。どんな反応をするのでしょうか? なぜかワクワクします。

 その刹那。

 道場から大きな木が割れる音がしました。それと同時に、動かない身体でも分かるぐらい、イヤな感情がドッと流れ込んできます。
「なにごとだ?」
 闇子は起き上がり、わたくしがいるコンパクトをポケットに入れると、音がした道場に向かいました。

「くそう。くそう!」
 轟さんは道場の柱に拳を何度もぶつけていました。柱にはヒビが入っています。この柱はわざとに壊れる形にしてある柱なのですが、毎度毎度直す大工さんが大変そうだな、といつも見てて、今回もそうなんだろうな、とぼんやり考えていますと、
「おれは都子と結婚するんだ! あの美しさをおれのものだけにするんだ!」
 ものすごく気色悪いことを叫んでいました。興奮のためか、轟さんの息は荒いです。その姿すべてが、何もかも不気味で気持ちが悪いです。身体は乗っ取られていますが、本気で吐きそうです。わたくしがこの身体を操っていれば、確実に吐いています。
「はん。誰と誰が結婚するって言っているんだ?」
 スッと柱のそばに闇子は立つと、轟さんを煽りました。
 轟さんは顔を真っ赤にさせ、
「美しい女が強い男と付き合うのは自然の摂理! オレと付き合え! そして、結婚しろ!」
 こう、大声でがなり立てました。
「お前みたいな下品な考え方のドヘンタイと結婚するなら、幼馴染みの例のバカと結婚した方がまだマシだぜ。少なくても、彼には人間の心はあるからな」
 闇子は再び煽りながら、ゲラゲラ笑い、轟さんを指さしました。
 轟さんは血が出んばかりに、拳を固く握り、
「お前は男のプライドってものを知らないのか! 世間知らずだと思っていたが、ここまで酷いとは思わなかった」
 と言って、大きく振りかぶり、わたくしの「身体」めがけて拳を振り下ろしました。これは、本気で殴りかかろうとしています。わたくしは恐怖心から視界を見えないようにしました。
 視界を開けると、闇子はその拳を片手で軽々と握っていました。そして、もう片方の手も腕を掴むと、懐に入り、その勢いで轟さんの身体を背負い、肩から大きく投げました。轟さんの身体は宙を舞い、畳の上に落ちます。いわゆる背負い投げです。畳に重い衝撃音が響き渡りました。
「この程度で最強の弟子なのか。弱いったらありゃしねえ。どこが『強い男』なんだよ。ふざけるのも大概にしとけ。今度、ここの道場破りでもさせてもらおうかな。あはっ」
 末恐ろしいことを両手をはたきながら、軽々と笑う闇子は、
「あのさあ。言っておくけど、相手を拳で言うことを聞かせ、人を装飾品代わりに扱っているのはプライドなんかじゃねえよ。それはただの『支配』だ」
 轟さんに力強く、そして怒りを込めた声でこう叫び、
「闇の力を以て、天誅を下す!」
 とまじない文句を唱え、指を鳴らし、そのまま指さすと、 
「真実の扉よ、今開けん! 汝、本性を顕せ! 男のプライド? はん! そんなの犬に食わせておけ! 乙女をなめんな!」
 弱々しく起き上がっていた轟さんに向かって回し蹴りをしました。
 轟さんは顔面にその蹴りを思い切り食らい、そのまま泡を吹いて倒れ込みます。
 ちょっとだけ不安になったわたくしは、
「大丈夫ですかね? 死んではないですよね?」
「寝ているだけだ。死んじゃあいねえよ」
 闇子はコンパクトミラーを開き、返事をします。表情は彼女の穏やかでした。
「んじゃ、返すぜ」
 一回、視界が暗くなり、そして身体に自由が戻りました。
 もう、マイペースなんだから。

 
 次の週。今日はあいにくの雨。カーテンは閉め切っているため、外の様子は雨の音しか聞こえません。湿気がノドに張り付き、そして本が傷まないか不安になります。
 文芸部部室でいつも通りの読書会をしていたときでした。
「あのさ、この前話した轟ってヤツ、恋愛に失敗して高校をやめたそうだけどさ。都子、なんかしたの?」
 鈴は顔よりも大きな醤油のりせん片手にわたくしに尋ねます。
「いつも通り、彼女の仕業です」
 鈴にコンパクトミラーを見せました。いつもより表の蝶のビーズがキラキラ光っているように見えます。
「ああ。彼女ね」
 闇子を知っている鈴は納得したように苦笑いをします。
「今、彼女はなんか言っているの?」
「ということなので、闇子。伝えることありますか?」
 わたくしはコンパクトミラーを開くと鈴の質問を闇子に尋ねました。意思疎通ができるのは身体を使っている方なので、現在鏡の中にいる闇子と鈴は会話できません。
「好きでもないヤツにキスを迫るドヘンタイに付き合わされたこっちの身ににもなれ。大事な都子が傷ついたら、あたしが傷つく」
 わたくしは一語一句間違えずに鈴に伝えます。なんか白々しいことを言っている気がしないでもないですが、そこはスルーします。
「そりゃあ、気持ち悪いよ。その場の流れだけで彼女じゃない人にキスを迫るなんてさ。勘違いにも程があるって」
 コーラを一口飲んだ鈴は、
「ねえ、そのキス魔はどうなったの?」
 野次馬顔に聞いてきました。
「昨日、破門されました。どうやらあの闇子の件のあと、いくつもの暴力沙汰が発覚して、補導をされたそうです。その流れで退学になったのかもしれません」
「人のことは言えないが、あんなガラの悪い連中とつるんでいる時点でなんかあるって思っていたぜ」
 闇子はぼそり呟きます。声のトーンはいつもより低めです。
「見事だね、闇子さん。不良からファーストキスを守ってくれた上に、今回も人の闇を暴くなんて」
 鈴の高笑いに、わたくしは首をかしげます。
「そんなものなのですか?」
「少しは感謝しろよ、都子」
 闇子はあきれたれたように溜息をつきました。

第二章「やってきた闇子さん」

「鈴ちゃん! これ、可愛いですね!」
「そうだねえ! 都子ちゃん!」
 わたくしが中等部に入りたての頃の話です。
 クラスメイトの中嵜鈴とわたくしは、遠足で隣の都会に来ました。桜吹雪が見事に舞っています。外はポカポカとしていて、天気がとても良いです。朝はまだ寒いので、インナーのチョイスにちょっと悩みましたが、丁度良いものを選べたようです。
 気持ちの良い風を浴びながら街を歩くのは心が晴れやかになります。なんだか良いことが起きそうな予感がして、うきうきしました。
 七色虹色の艶やかでポップな可愛い服を着たお姉さんたちが楽しげに歩いているのを見るだけで、わたくしのテンションが上がります。
 そして今、その大通りから一本それた道にある海外雑貨のアンティークショップで、鈴と二人でおしゃべりをしてました。
 東洋や西洋、はたまたどこの国のものか何に使うか分からない雑貨が並んでありました。かなり物珍しいラインナップで、わたくしは鈴と一緒にきゃあきゃあ楽しく騒いでしまいます。さっきまで他にも客がいました。けれど、今はわたくしたち二人だけ。尚更騒ぎます。
 この遠足は高尚学園の中等部において対立が激しかった初等部からの内部進学者と入試で入った外部進学者の親睦を深めるために始まった学内行事という噂を聞いたことがあります。この行事が始まってから対立は少なくなったとも聞きました。どこまで本当かどうかはわからないですけど。
 しかし、実際、内部進学者のわたくし、篠座都子にとって、外部進学者で鈴という友だちが出来たのは大変喜ばしいことでして、自分が知らないことを知っている人物と出会えるというのはそうそうないことだと思っています。そして、そんな彼女と遊べる遠足という機会があって良かったと思っています。
 初等部の頃から割と友だちは多かったと思います。でも、新しい友だちができるのはやはり嬉しいものですね。
「なんだろ、このお面!」
 突然、鈴は赤い舌を出した白塗りの顔のお面をつっつき、お下げを揺らしながらケラケラと笑い出しました。そのお面はかなり面白い顔をしています。あまりに面白いお面です。わたくしも笑い出します。
「そのお面はどこの国のモノでしょうか」
「さあ? 店員さんに聞いてみれば?」
「そこまでしなくてもいいのではないですか? 買わないんですよね?」
「でも、これがもし……どこかの儀式の道具だったら、呪われるかも……」
「呪われるのは触れた鈴ちゃんだけです、きっと!」
「ひっどい、都子ちゃん! 一緒に笑ったじゃないのさ!」
 わたくしたちはこの会話で大爆笑しました。思わず口を押さえます。
 その手を下ろしたとき、わたくしは何かに触れました。そのまま私は無意識にそれを持ちます。
 それは様々な色のビーズが蝶々の形にちりばめられたキレイなコンパクトでした。あまりの美しさに惚れ惚れと眺めてしまいます。中を開けると、きらきら輝く鏡がはめ込まれていました。でも映る「わたくし」になんか違和を感じます。わたくしの顔色ってこんなに悪いのでしょうか? どこか憂いのある表情をしているのが気になります。あまり気にしないほうがいいのでしょうか。
「あー。都子、もしかして一目惚れ?」
 鈴のニヤニヤ顔にわたくしは我に返ります。
「あ……。そうですね。一目惚れ……ですね」
 わたくしはコンパクトを閉じ、眺めました。蝶々がなんだかわたくしを呼んでいる気がします。
 第六感が叫んでいました。わたくしはこれを手に入れなければいけない。この鏡を手に入れなければ、わたくしの人生すべてが狂ってしまう。そう思うほどに。
 値段はいくらでしょうか。コンパクトミラーには数字の書かれたシールや札はついていません。
「あの! お店の方、いらっしゃいませんか?」
 わたくしは声を張り上げました。
「ああ、お嬢ちゃん。一体どうしたんだい?」
 奥から店主と思われる女性が顔を出しました。だいたい年齢はわたくしの養母と同じぐらいでしょうか。アジアンテイストな服装です。おでこにはバンダナを巻いています。ヒッピー的な感じもします。派手なのに、それが非常に似合ってて素敵です。
「あの。これほしいんですけど、おいくらでしょうか」
 わたくしはコンパクトミラーを女性に見せました。
 女性は目を大きく見開き、まるで見てはいけないものを見るような目で、
「ウソでしょ……」
 と呟きました。
「あの……。そんな『ウソ』って言ってほしくないのですが……」
 一応、客であるわたくしをまるで化け物みたいに見てほしくないです。わたくしは丁寧で静かにお願いをしました。
「ああ。ごめんごめん。実はこのコンパクトミラー、ずっと探しててね。まさか店に並んでいるなんて思っていなかっただけ。お代はいいわ。可愛がってあげてよ」
「へ?」
 わたくしはあまりの驚きに声をひっくり返し、変な言葉しかでませんでした。
「いや、そんなわけにはいきません! わたくしは物を買うという行為をしています!」
 肩掛けポーチから財布を取り出します。
「義理堅いところまでそっくりね……」
 店主はぶつぶつ呟きます。一体誰の話をしているのでしょう?
 女性はつらそうにわたくしを見ると、
「値段がつけられないのよ、これには。だから、お代はいいの。むしろあなたが持っていた方がきっとあの子も喜ぶと思うわ。持っていってよ。大事にしてあげて」
 女性はそう言うと、目を潤ませながら微笑み、わたくしの頭を撫でました。その表情は、何故か愛で満たされていました。
 それにしても、「あの子」とは一体誰のことだったのでしょうか。

「ねえ、都子ちゃん。ただでステキなコンパクトミラーが手に入るなんて、すごいよね。うらやまぁ!」
 店から出た途端、鈴はわたくしの肩を思い切り叩きました。痛いのでやめてほしいです。
「わたくしはお金を払うつもりでいたのですよ。サイフを開いていたのを見たでしょう」
 叩かれたところをさすります。
「分かっているよ、茶化しただけだよ」
 彼女はどこまでわたくしの気持ちを分かっているのでしょうか。鈴は明るく性格も良いのですが、人の気持ちを汲むのが下手だと思います。こっちはお店でコンパクトミラーを「買う」のではなく「もらった」という罪悪感にさいなまれているのに、茶化してほしくないです。
 わたくしはプリーツスカートのポケットにコンパクトミラーを入れてみました。あつらえたような大きさです。
「丁度良い大きさ! これなら先生にバレないねえ。いつ持ち歩いても丁度良いって、本当にあるんだね」
 鈴はニヤニヤとわたくしのプリーツスカートのポケットを見ます。
「そうですね。確かにいつでも持ち歩けます」
 わたくしはコンパクトが入ったポケットを二度軽く叩きました。貰って良かったのか、と未だに罪悪感と戦っています。でも、お店から出てしまったので、今更どうこうできません。勇気を持ってありがたくもらっておくことにしました。
「あ、都子ちゃん。私、ちょっとお手洗い行きたいの。コンビニ、寄っていいかな」
 鈴は目の前のコンビニを指しました。

 今、コンビニコーヒーをコンビニの前で飲んでいました。本当はブラックが飲めたらカッコイイだろうなあと思うのですが、まだ苦く感じるので、きっとまだ早いのでしょう。諦めて、スティックシュガーを二本入れました。
「鈴ちゃん、お腹でも壊したのかな……」
 コーヒーは冷め切ってしまったので、一気に飲み干しました。コーヒーの香ばしい香りと甘さがノドを通ります。
 スマートフォンの時計を見ると二十分以上経っていました。まだ集合時間までに時間はあります。
 ですが、三十分もここで待つわけにはいきません。鈴は一体何をやっているのでしょうか。そんなに腹痛が酷かったのでしょうか。
 カップも捨てなければいけませんし、とりあえず、コンビニの中に入ろうと、自動ドアのスイッチに手をかけます。

 そのときでした。
 
 痛そうな打撃音がしました。同時に同世代の女子のツラそうな声もします。
 それと同時に、稲妻が落ちたような衝撃が心臓を突き抜けました。一体何が起きたのでしょうか?
 恐怖心と野次馬根性がせめぎ合いはじめます。周りの人たちはその声に気がつく様子がありません。
 五秒ぐらい、わたわたと悩んだ結果、野次馬根性が勝ちました。これはあまりに気になりすぎます。
 音がしたコンビニ裏へ行くと、工事で使うような大型の機械が並んでいました。
 そして、ここでの光景にわたくしは息を呑みました。
 そら、そうです。
 クラスメイトの歯織百合が同じくクラスメイトの栗山唄子を殴り倒していたのですから。
 砂利山に倒れ込んだ栗山は頭から血を流していました。
「ザワールドのライブチケット、持ってきた? あなたのお父さま、主催者なんでしょう?」
「もうあげたでしょ! 何枚もどうするつもりなの? そんなに友人がいるわけ?」
 歯織は叫ぶ栗山の胸ぐらを掴むと、長い髪を振り乱し、
「よいこと? 私の父さまは国会議員なのよ。あんたんちみたいな弱小会社なんて一捻りよ。理解しているかしら?」
 鬼のような目つきで、栗山を見ます。
 歯織とは、初等部で一回も同じクラスになりませんでした。でも、よくおしゃべりはしましたし、上品な印象を持っていたので、まさか自分の生まれや家を脅しに使っているなんてとびっくりしてしまいました。そして、暴力で人を命令させるなんて、信じられず、怒りがわき上がってきます。
 これは、どうにかしなければいけません。
 助けなければ!
 わたくしは大きく深呼吸をしました。
 そしてありったけの勇気を出して、声を張り上げようとした瞬間、
「誰かそこにいまして?」
 歯織は振り返り、わたくしを思い切り睨み付けてきました。恐怖で足がすくみます。勇気はチリと消えました。
「ああ。篠座さん。御機嫌どう? 私は斜めですわ。こいつがチケットくれなくて」
 近付いてきた歯織は冷たい笑みを浮かばせ、わたくしの頬を撫でます。
「篠座さん。このことを他言したら、どうなるか、分かっていますわよね? それに私はアカルヤ教の中でもトップに近いのですわ。あの御方の力を借りれば、あなたなんて、ゴミクズ同然。それが何を意味するか、頭の良いあなたなら理解できますわよね?」
 「あの御方」が誰かはよく分からなかったのですが、歯織のこの言葉と血を流す栗山の姿に口と背筋が凍り、恐怖で何も言えません。足が固まってしまいました。
「んじゃあ、考えておきなさいよ」
 歯織はくるくると巻かれた髪をなびかせ、その場を立ち去りました。
 栗山は立ち上がり、血塗れのおでこを触りました。彼女の手には血がべったりついていました。ベリーショートの髪も血でベトベトです。早く手当しないと、ばい菌で化膿をしてしまうでしょう。
 わたくしは止血をせねばと、ポケットティッシュを取り出し、傷口にあてようとしました。
 栗山はわたくしに大きくビンタしました。一体何が起きているか分かりません。わたくしは、ただティッシュを渡そうとしただけなのに。
「結構よ! 内部進学者のアンタに外部進学者の私の何が分かるっていうわけ?」
 栗山は立ち上がると、大きな声で叫び、走り去っていきました。
 確かにわたくしは彼女のことを何も知りません。彼女の言うとおり過ぎて、呆然とするしかできません。
 打たれた頬を触るわたくしの心はざわめきはじめました。

 帰りのバスでスマートフォンを見るフリをして栗山を見ました。彼女のおでこにはガーゼが当ててあります。担任の森若先生が処置したのでしょう。黙ったまま外を見ていました。傷跡が残らなければいいのですけど……。
 一方の歯織は盛り上がっている会話の中心で笑顔でクラスメイトの注目を浴びています。
「ああ、篠座さん! どうしてそんなに暗い顔をなさって?」
 歯織から急にわたくしに話がふられ、動揺します。さっきの暴力沙汰と口止めをされているため、胸が苦しく感じます。
「ま……まあ。普通です」
 とりあえず、差し障りのない内容を答えを言います。
「ふうん。まあ、いいですわ」
 歯織は冷たい軽蔑の笑みでわたくしを見ました。
 ああ、なんてわたくしは弱虫なのでしょうか!
「ねえ。都子ちゃん。なにかあったの?」
 鈴はわたくしにそっと耳打ちします。
「ううん。なんでもないですから」
 わたくしは空元気に笑いました。そして、本当のことが言えない自分が、心底イヤになりました。

 深い森をイメージした自室に帰ってきました。爽やかな新緑のシーツが掛かったベッドで大の字になります。大きく背伸びをすると、横にある木製の本棚を眺めました。教科書や参考書から、大好きなSFやシリーズ物のミステリー小説が並んでいます。
 わたくしは買った……いや、アンティークショップでもらったコンパクトミラーをポケットから取り出し、眺めました。
 わたくしはほぼお小遣いを本に費やしているので、こういうアイテムをほとんど持っていません。あえてお気に入りを上げるなら、頂き物の小さな可愛い赤べこです。だからでしょうか、初めて自分で選んだコンパクトミラーを眺めているだけで、胸の高鳴りを感じました。
 蝶の形にちりばめられたビーズのきらめきが私の心と共鳴し合っている気がして、見ているだけで癒やされ、とてつもなく心地がいいです。
「こんな素敵なもの、もらって良かったのでしょうか」
 独り言を呟きながら、わたくしはコンパクトを開きました。
 普通なら、反対に映ったわたくしの姿が見えるはずです。
「もらって良かったんじゃねえの」
 映っていたのは、邪悪な破顔の「わたくし」でした。
 わたくしは絶叫し、コンパクトを放り投げました。そら、そうです。わたくしはこんな顔をしたことがないんですから!
「そんなに雑に扱わないでくれ。割れたらどうする?」
 恐る恐る床に落ちたコンパクトミラーを拾い、覗き込むと、鏡の「わたくし」は不機嫌な顔をしていました。
「ごめんなさい」
 わたくしは鏡の「わたくし」に向かって謝ります。なんだか変な感じです。
「それで、あなたは誰でしょうか?」
 「わたくし」は首を捻り、そして、暗く、さみしそうな目でわたくしを見たあと、
「ううん……。なんて言ったらいいか」
 五秒ぐらい考え込んだ後、
「このコンパクトミラーに取り憑いた……そうだな。いわゆる悪霊だと思う。そういうことにしてくれ。あたしにも何が起きたのか、今のところ、イマイチ把握が出来ていないんだ」
 強い決心を持ったようなまっすぐな目で答えました。
「悪霊ですって?」
「そういうことにしてくれって。そうすれば、お互い、WIN―WINなんだよ。悪霊っていう自覚があるだけ、まだマシだと思ってくれよ。頼む」
 良くワケの分からないやりとりを鏡の向こうの「わたくし」とわたくしはしています。あまりにあべこべで頭が変になりそうです。
「半日、あんたの目を通して、久々に外の世界を見させてもらったよ。金持ち学校でもあたしが通っていた学校みたいにイジメがあるんだな。いや、むしろこっちのほうがえげつねえな。金持ちがこれ以上金を欲しがるなんて、酷い話だ。都子も都子だぜ。どうしてあんなことをした?」
 「わたくし」はトゲトゲしい目でわたくしを見ました。
「そんな目でわたくしを見ないでくれますか? わたくしは一応止めようとしました」
「でも、結局何もやっていないじゃないか。思っただけで行動をしないのって一番ダメな例だぞ」
 ああ言えばこう言うとはこのことでしょうね。向こうの「わたくし」はわたくしを論破していきます。腹立たしいことこの上ないです。しかし、彼女の言うことは正論で、なにも反論できる要素が見当たりません。悔しくて、俯き、唇を噛んでしまいます。
「ここまであたしに言われて悔しくないか? 都子。あたしなら、悔しくて、拳を強く握って、号泣しているところだよ」
 「わたくし」にこう言われて、顔を上げます。
「悔しくないはずがないです! 悔しいに決まってます! ただ、行動力がなかっただけです。起こしたかったのは本当です!」
「あはっ。そう来なくっちゃな。さすが、都子だ。んじゃあ、手始めにスマホかなにかを持ってくれないか」
 ん……? 中の「わたくし」は一体何を言っているのでしょうか。とりあえず彼女の言うとおり、鞄からスマートフォンを取り出します。
「最新型のスマホじゃねえか。やっぱりセレブリティは違うな!」
 「わたくし」も何故か同じスマートフォンを持っていました。鏡だからでしょうか。鏡の彼女の目はどこか楽しげです。
「ねえ、何に使うつもりなのですか?」
「簡単さ。撮るんだよ。でも、あたしがこうなってからは初めてだからうまくいくか不安けどよ」
 「わたくし」はスマートフォンをおでこに当てると、
「闇の力を以て、真実を示さん! 今、我等に真実の様を教え給え! さあ……。ちゃんと映ってくれよ……」
 こうまじない文句を呟きました。軽い電子音が二度鳴ります。
 画面を見た「わたくし」は素敵な笑顔になると、
「やった、大成功! やれば出来るぜ、あたし! 見てくれ、都子」
 大はしゃぎで撮った動画を見せました。

 ◆
 
 大きな薄暗い部屋に、数字が沢山並んだ書類が散らばっているのが見えました。あたりには、朽ち果てたオフィスのデスクや椅子が並んでおり、床にはガラスが割れたブラウン管のパソコンのディスプレイが落ちていました。ボロボロのケーブルはだらしなく、床に散らばっています。
 もしかして、ここは街外れにある廃墟でしょうか。たしか、十年前に潰れた会社の自社ビルと聞いたことがあります。
「あんたのお父さんを助けたければ、もうちょっとがんばりなさいよ」
 栗山を見下ろす歯織の姿が見えました。
 これは……! 歯織が栗山からコンサートチケットを奪っている場面でしょうか。
 最初は言葉だけだったようです。しかし、だんだん声色が怖くなります。歯織は冷たい笑みで栗山から奪ったチケットを振っていました。
「身の程をわきまえてあそばせ!」
 高笑いしながら、歯織はこれでもか! と言うほど大きな高笑いを上げながら、夕焼けの廃ビルから消えていきました。
 次の映像が始まりました。
 工事現場で頭から血を流した栗山に、歯織は冷たい目で見ます。
「ザワールドのライブチケット、持ってきた? あなたのお父さま、主催者なんでしょう?」
 それは、さっきわたくしが見た光景でした。

 ◆
 
「わ、ここまでのひねくれタカビーで傲慢で強欲って傑作だな。ビンゴゲームならリーチだぜ」
 中の「わたくし」は真剣な目でわたくしを見ました。
「そ……そんなこと……あるなんて……」
 わたくしの頭の中は真っ白になります。あのとき、ちゃんと止めていれば……!
「後悔したって仕方がねえよ。終わったことなんだし」
「それは慰めですか?」
「ちげえよ。事実だって」
 「わたくし」は軽い調子で楽しそうに笑いました。事態の重さを理解しているんでしょうか。イラッとします。こちとら、非常に悩んでいるのに!
「何を笑っているんですか?」
 わたくしは「わたくし」に怒りをぶつけました。
「笑ったのは悪かったよ。ただ、お互いさ、こんな状況になっちまったんだ。一回は笑い飛ばさせてくれ」
「そう……ですか。分かりました……」
 突然、しんどそうな目をした「わたくし」に、わたくしの怒りは小さくなります。
 彼女は何があって、悪霊となり、今、このコンパクトミラーにいるのでしょうか。気になりますが、
「ま、お互い落ち込んでいられねえよ。どうするか、明日一日、使って決めようぜ」
 「わたくし」はスマートフォンを片手に明るく返事する声に、聞きそびれました。

 翌日のこと。
 今日はあいにくの曇り空。雨こそ降らない予報でしたが、寒いです。
 登校時、暖かなバスの中で、大きくあくびをしたときでした。ポケットの中がカタカタ震えはじめました。なんなのだろうとポケットに手を突っ込みます。感触から分かりました。あの悪霊が取り憑いたコンパクトミラーです。
 恐怖心で顔から血の気が引きます。どうして入っているのでしょうか。机の上に置いてきたはずなのに。わたくしは早く脈打つ鼓動をどうにかしようと胸を押さえました。そして、大きく深呼吸します。騒いでも仕方がありません。意を決して、ポケットの中からコンパクトミラーを取り出し、開きました。
「おはよう、都子。調子はどうだ?」
 「わたくし」は邪悪な微笑みをたたえていました。
「どう……って。あなたの知るところじゃありません。どうしてあなたがわたくしのポケットにいるのですか?」
「自分で入れただろ。忘れたのか? それにしなきゃいけないことあるだろ?」
 「わたくし」は面倒くさそうな目でわたくしを見ます。そんな目でわたくしを見ないでください。
 わたくしはあなたが面倒くさいです。
「まあ、憑いてきちゃったのは仕方がないじゃないか。同行させてもらうよ」
 カジュアルに「わたくし」はそう言い、
「都子の目からものを見ることが出来るから鏡は閉じたままで大丈夫だからな。久々に授業を受けられる。ハイレベルな授業なんだろう? 楽しみだ」
 と懐かしそうに穏やかな表情をしました。
 それにしても、向学心がある悪霊なのですね。やんちゃな口調から想像できるイメージと真反対でびっくりです。
「都子、お前。あたしのこと、不良のくせに勉強好きなんだな、って思っただろ? 自分でも思っているけどさ。勉強は好きなんだよ、これでも。知るって楽しいことだろう?」
 「わたくし」は不機嫌な表情を見せました。

 三時限前の休み時間、わたくしは家庭科の授業のため、エプロンと教科書片手に旧校舎に向かいました。鈴は準備のため、一足先に家庭科室に行っていたので、今はわたくし一人です。
「なあ、都子」
 「わたくし」はポケットの中からわたくしに声をかけます。
 ああ! もう! 面倒くさい!
「なんですか」
 うざったい「わたくし」にわたくしは不機嫌に答えました。
「この学校、結構広いんだな」
 「わたくし」はどこか感心した声で言います。
「ええ。高尚学園は初等部、中等部、高等部まで一緒の校舎ですからね。流石に大学は別ですけど」
 とりあえず、相手が納得し、飽きるのを期待して、長々と説明しはじめようとしました。
「へえ。お坊ちゃんお嬢さん学校ってやっぱりシステムがあたしの通っていた学校と違うんだな」
「あなたはどんな学校に通っていたのですか?」
「地味な学校だったよ。公立のな。可もなく不可もなく。進学するために制服も買ったけど、結局着られずじまいだった。そんなキレイな緑と白のセーラー服じゃなくって、地味な紺色のセーラー服だったけどさ。それでも一度で良いから、着たかった」
「はあ」
 本気で面倒くさいので、話題を変えようと試みたのですが、逆に興味を持たれてしまいました。その上、身の上話まで。悪霊である「わたくし」の生前が気になってきました。そもそもいつの時代の人なのでしょうか。しかし、込み入った事はどうも聞きにくいため、深く聞くのはためらいました。
 わたくしは更に話題を変え、
「新校舎は主に教室ですね。旧校舎は理科室や家庭科室、音楽室とか、特殊な授業をするための教室それぞれ三つずつあります。あと倉庫。ただコンピューターがある電脳室は二つとも新校舎です。今年、コンピューターがすべて最新型になったと聞きました。図書館は新校舎にも旧校舎にもあります。グラウンドは校内と校外にありますね。野球部とサッカー部は校外で、陸上部は学校内のを使ってます。体育館も校内と校外にあります。茶室とかテニスコートとかもありますが、まだわたくしは行ったことがないです。もしかしたら、他、知らないところもあると思いますが、ざっとこんな感じですね」
 校舎内の説明をしました。
「へえ、相当リッチだな。うらやましいよ」
 「わたくし」はどこかさみしそうな声でした。
   
 昼休みに入りました。わたくしは自分の席でお弁当を開きます。今日も美味しそうです。いつも諒には、感謝しかありません。午後も頑張れます。
「今日の数学、キツかったわ! 方程式ってなくなればいいのに」
 鈴が大きくあくびをすると、わたくしの隣に椅子を持ってきて座りました。
「そんなに難しかったですか?」
「そりゃあ、もう。ねえ」
 楽しげに鈴はチョココロネと紙パックのコーヒー牛乳を開けます。
「都子っていつもお弁当だけど、自作?」
 鈴はわたくしの弁当に興味を持ったようです。今日のメインはオムライスです。その横にブロッコリーとプチトマトがかわいらしくのってます。
「いいえ。違います。わたくし、不器用なので、ここまで丁寧に料理できませんよ」
「んじゃあ、母の愛が詰まったお弁当?」
 わたくしは首を横に振り、
「いいえ、違います。母は早起きが苦手なんです。わたくしたちが出る時刻に毎日起きます」
「んじゃあ、誰が? お手伝いさんでもいるの?」
 鈴は不思議そうな目でわたくしを見ます。
「諒……。ああ、弟です。弟が作ってくれています」
「弟?」
 鈴はびっくりした表情をしました。
「弟の趣味が料理なんです」
「道場の跡継じゃないの? 修行とかしているんじゃないの?」
「諒が言うには、それは将来の仕事だ、と。好きなことが、料理。わたくしが読書をするように、自分の趣味は料理なんだって言ってます。毎日、献立を考えるのが楽しいそうですよ。道場でも振る舞ってたりします。祖父はイヤな目をしますが」
「へえ」
「諒はカレーが好きなんです。スパイスから配合するんですよ。時々、ゴリゴリやってます。とても良い香りがしてきて、そのたびにワクワクしますね。将来はスパイス調達のためだけにインドへ行きたいとか言ってましたね」
「ガンジス川へ自分探しにはいかないんだ」
「スパイス調達のためだけらしいですよ。自分はとっくにあるって言ってます」
 わたくしと鈴は軽やかに笑いました。
「あ、そうそう。あのコンパクトミラー、どう? 今日、持ってきたの?」
 鈴は目をらんらんに輝かせながら、尋ねてきます。
「あ、うん。ええと……」
 言葉に詰まったわたくしは、一度深呼吸をすると、
「なくすと悪いので、置いてきました」
 なけなしの笑顔でウソをつきました。もしかしたら悪霊である「わたくし」が鈴に危害を加えるかもしれないからです。
「おい、あたしの存在を隠すのかよ」
 「わたくし」はポケットの中から不満そうに言いました。わたくしはびっくりして、椅子から転げ落ちかけます。ああ、椅子の角に打った腰が痛い。
「都子ちゃん、どうしたの、一体?」
「いやあ、なんでもないです、ホント」
 心配する鈴にわたくしは痛いながらも立ち上がり、渇いた笑いしかできませんでした。
 
「ごちそうさまでした」
 わたくしは空になった弁当箱に手を合わせると、巾着袋の中に戻しました。
「都子ってば、食べるの早い! 結構あったわよね?」
 鈴はスマートフォン片手に叫びます。
「いやいや。スマホをいじりながら食べているからでしょう。なにを熱心に見ているのですか? 大きなニュースでも?」
 わたくしは巾着袋を鞄にしまいながら、尋ねます。
「ザワールドって知ってる?」
「いいえ。存じあげません。タロットカードでしょうか」
「『THE WORLD』っていうアイドルグループのことよ! 今度、ライブに行くんだ! 小学校の友だちがとってくれてね。プラチナの中のプラチナチケットなのよ。こんな機会一生ないかもしれないぐらいレアなんだよ!」
「へえ……。アイドルグループのライブ……」
 鈴はスマートフォンの画面をわたくしに見せてくれました。
「イタルにアキラにシンガ!」
 鈴は画面に映る三人の男性を紹介してくれました。でもわたくしは誰が誰だか分かりません。
 「覚える気がない」が正解に近い気もします。
 予鈴が鳴りました。
「やべ、食べなきゃ」
 鈴はチョココロネを凄い勢いでほおばりはじめました。その姿は大きな頬袋のリスでした。

 
 放課後、部室へ向かうとき、陸上部のユニフォーム姿の歯織がイヤミな笑みでわたくしを一瞥して、階段を降りていきました。心の中が冷たく感じます。この前の出来事や「わたくし」が見せた映像が脳裏に駆け巡ります。
 コンパクトがカタカタ震え始めました。開けると、「わたくし」がマッドサイエンティストのような笑みを浮かばせていました。
「昨日の復讐をお見舞いしてやろうぜ」
「は? それは一体どういう……?」
「このままじゃ、何も変わらないどころか、事態は悪化する一方だ。アカルヤ教団の信者……そして、幹部に近かったら尚更だ」
「話が見えません!」
「見えなくてもいい! 栗山が死ぬよりはマシだ!」
 中の「わたくし」は邪悪な目で首をかしげるわたくしを見ます。
 
 突然、わたくしの視界は真っ暗になりました。
「見ようと意識すれば見えるはずだよ、多分」
 遠くから「わたくし」の声が聞こえます。彼女の言うとおりにしてみました。周りが見えるようになりました。感覚は若干あるのですけど、身体はさっぱり動きません。
「まさかと思ったが、できるものなんだな。ちょうどいいや。ちょっと身体を拝借させてもらうぜ」
 「わたくし」はわたくしの身体を使って歩き始めました。しかし、その方向はわたくしが所属している文芸部の部室棟の方向ではなく、新校舎をうろうろしています。どこかの場所を探しているようです。
「ああ、ここか」
 ついた場所は第二電脳室でした。高等部の教室の奥にあり、先輩方の冷たい目が刺さるので、少々居づらいです。
「お、篠座じゃん。一体どうしたんだよ」
 真後ろからヌッと明るい茶髪につり目が印象的なクラスメイトが覗き込んできました。幼馴染みの愛田相です。背が高くガタイが良いのが憎らしいです。元々、道場の門下生で、そこで知り合ったのですが……。彼は色々「反応」と「扱い」に困るタイプで、どう対応すれば良いのか分からない人物です。
 愛田は電脳部の部員なので、いてもおかしくはありませんけど……。これ以上、面倒くさくなって欲しくないのに……!
 「わたくし」はナチュラルに愛田を無視し、電脳室に入ります。
「おい、部活はどうしたんだよ。どうして、お前がここにいるんだよ」
 愛田は「わたくし」の肩を掴みました。「わたくし」は強い力で振り払うと、
「うるせえな。少しは黙ってろ」
 怖い口調で威嚇しました。
「は? どうしたんだよ。今更キャラでも変えようっていうんか?」
 愛田は扱いが面倒なところ……茶化してきました。
「愛田、助けてください!」
 悔しいけど、ここは愛田にこの行動はわたくし、篠座都子の意志ではないということを伝えなければいけません。大声で叫びました。
 しかし、愛田は全く反応をしてくれません。
「都子、どうやら、身体を動かしている方としか、他の人間と意思疎通ができないようだぜ」
 「わたくし」は小さく呟きます。
「篠座、なに独り言を言っているんだ?」
 愛田は再びわたくしの肩を掴みます。
「お前の知ったことじゃねえ。気安く触るな!」
「そんな顔、お前、出来たのか?」
 愛田の表情は完全に凍りました。どんな顔を「わたくし」はしているのでしょうか。ちょっと頬とおでこの筋肉が引きつります。
 固まった愛田をよそに、「わたくし」は、一台のコンピューターを立ち上げました。
 軽やかなシグナルと共にディスプレイが表示されます。
 「わたくし」はブラウザを立ち上げ、検索エンジンに「THE WORLD」と打ち込み、エンターキーを押しました。
「お前にも好きなアイドルとかいるんだな」
 愛田は青ざめながらも相変わらず茶化してきます。こんな状況でも茶化せる度胸はアッパレです。
 「わたくし」は愛田の茶化しを綺麗に無視し、インターネットオークションのページを開きます。
「おい、ちょっと待て!」
 愛田の顔からは完全に血の気が引いていました。
「もしかして、テンバイヤーから買うのか? それはマズいぞ!」
 「わたくし」の腕を押さえる愛田を「わたくし」はまた振り払い、華麗にスルーすると、印刷のウィンドウを開きました。どうやらブラウザに映し出されている内容を印刷するようです。
「一体、なにをやろうっていうんだ? お前、本当に篠座か?」
 愛田は不安そうな顔で「わたくし」の顔を見ます。
「あたしは都子じゃねえよ」
 「わたくし」は愛田の顔を一切見ずに、ダイアログボックスに印刷するページ番号を入力していました。
「印刷をかけたい。どれを使えば良い?」
 振り返った「わたくし」の顔を見た愛田はわかりやすい動揺を見せました。「わたくし」は一体どんな表情をしているんでしょうか……?
「だから、プリンターはどれを使えば良いんだよ? なるべくならカラーで頼みたい」
 固まっていた愛田は深呼吸をすると、
「ちょっとどいて」
 そう言い、コンピューターからどいた「わたくし」からマウスをとると、カチャカチャ弄り始めました。
 騒がしいプリンターの動作音が鳴り始めます。
「ありがとう。助かった」
 「わたくし」は出力された紙二枚を取り出し、眺めます。二枚とも同じ内容で、さっきの転売チケットの内容です。
 これを一体どうするつもりなのでしょうか?
「やっぱりな」
「わたくし」は一人で納得したようで、そのまま、どこかへ行こうとしました。
「待てや!」
 愛田が「わたくし」の手を強く掴みました。
「お前が篠座じゃないんなら、一体誰なんだよ。名前ぐらい名乗れ」
 愛田は今まで見たことがない怖い表情をします。
「言う必要性はないし、今ではあたしを示す固有の名前はもう存在しない。悪霊ってそういうものさ」
 我関せずに「わたくし」は答えます。
「んじゃあ、篠座はどこにいるんだよ」
 半泣きで愛田は「わたくし」の胸ぐらを掴みます。
「めんどくせえな。事が済んだら、都子から事情を聞け。あたしは説明するのが下手なんだ」
 「わたくし」は愛田の腕から抜けると、セーラー服を整え、
「んじゃ、復讐に行ってくる」
 そう言って、走り始めました。
「あの! どこへ行こうとしているんですか?」
 わたくしは身体を動かしている「わたくし」に聞きます。
「ユニフォームから推測するとさ、歯織は陸上部なんだろ? だからグラウンドへ。同じユニフォーム着ている中にいるだろ」
 え、もしかして、歯織にこのハードコピーを見せるつもりなのでしょうか。
「ねえ、無茶はやめてください!」
 わたくしはあのときの恐怖心が復活し、「わたくし」を止めようとします。
「んな、もしこれが露呈しなかったら、お前もイジメの一端を担うことになるんだぞ。感謝ぐらいしてくれ」
 「わたくし」は気難しそうに返事をすると、階段を、高らかな音を立てて、猛スピードで降りていきました。
「おい、待て! 待てったら!」
 突然、腕を掴まれました。掴んだ相手は愛田です。
「今、陸上部って言ったよな? 今日の陸上部は体育館だ。こっちの方が近い!」
 愛田はそう言うと、「わたくし」の腕を掴み、走り始めました。

 体育館では陸上部がストレッチが終わった頃でした。
「歯織百合! いるか!」
 突然、「わたくし」は体育館いっぱいに響く大声で叫びました。わたくしって、こんなに大きな声がでるんですね。
「いるけど……。一体どうしたの、篠座さん?」
 陸上部顧問の先生が不思議そうに見ます。歯織やそのほか部員も集まってきました。栗山も顧問の後ろからこちらを見ます。
「あたしは復讐に来た」
 「わたくし」が言った瞬間、陸上部の部員全員、あと愛田の表情が氷水をかぶったように青ざめていました。
「歯織百合。あんた、栗山から脅して奪ったチケット、一体どうしたんだ?」
 「わたくし」は歯織に静かに尋ねます。栗山は胸を苦しそうに押さえていました。
「な……なんの話? 奪ったチケットってどういうこと?」
「すっとぼけるんじゃねえ」
 堂々とした姿の裏腹、やや震えた口調の歯織に、思い切り怖い声で「わたくし」は歯織にわたくしのスマートフォンの画面を見せました。
 あの恐怖としか思えないあのやりとりの動画二つともすべて流れます。
「で、ちょっと検索かけてみたら、ホラ。これ、お前の出品だろ? ネットオークションのページなんだけど」
 「わたくし」はさっきのハードコピーを掲げます。
「『THE WORLD』のコンサートチケット。出品者『ゆりりん』。どこかで聞いたことのある名前だな」
 「わたくし」は愉快そうに笑いはじめました。
 顔を真っ赤にさせた歯織は「わたくし」から紙を奪い取ると、ビリビリに破りました。
「これで証拠隠滅よ!」
 歯織はちぎった紙を空に投げると勝利の雄叫びでしょうか。高らかに笑います。
「残念だったな。それはここにもう一枚あるし、そもそもネットを見れば一発だろ。出品したままなのだし。語るに落ちるってホントだな」
 「わたくし」は二枚目のハードコピーをポケットから楽しげに掲げました。
「てか、あんたのその態度こそが何よりの証拠じゃねえか。闇が深いな」
 「わたくし」は顔を歯織の顔を覗き込み、
「引っかかってくれてありがとう」
 と、イヤミに皮肉なお礼を言いました。歯織の顔は見事に引きつっていました。
「んじゃ、用は済んだし、あとは二人で片をつけな。栗山。あんたならきっとできるぜ」
 「わたくし」はウィンクをすると、校舎の中へ走って行きました。

「おい。待てや。篠座!」
 昇降口で「わたくし」は後ろを振り向きました。はあはあと喘ぐ愛田が後ろから追いかけてきます。
「お前、まさか、テンバイヤーの正体を暴くためにこんなことをしたのか?」
「いえす。そうだよ。だって、都子はコンピューターは持っていても、プリンターがないから、家では出来なかったんだよ」
 自分の出した質問に斜め下の答えが来たのか、愛田は呆然としてます。
「んじゃあ、聞くぞ。そもそも、お前は誰だ? あの映像はなんなんだ?」
 「わたくし」は頭を掻くと、
「あたしもあたし自身のすべてを理解しているわけではない、と言う前提で話をさせてくれ。あたしはある人物が絶望した事柄が起きた場所・時間をカメラ、もしくはそれに類ずるもので見ることが出来る能力がある」
 わたくしの頭は停止しました。愛田の顔も固まっています。
「もう一つの能力として、人の本性を暴く能力もあるが……。今回は使わずに済んで良かったよ」
 軽やかに「わたくし」は笑います。
「んじゃ、な。あとは都子から聞け」
 「わたくし」は手を振った途端、一瞬視界が真っ暗になりました。すぐに視界が戻り、身体の自由も戻りました。両手のグーとパーを繰り返します。
 そして緊張感から解放されたためか、わたくしは膝から崩れ落ちました。
「な……なあ」
 愛田はわたくしの肩を叩きます。
「愛田もしんどかったでしょう。わたくしも疲れました」
「今は篠座なのか?」
 わたくしの目を見た愛田は安堵の表情を作る。
「ええ。わたくしです。篠座都子です。一体何が起きたのでしょう」
「それはこっちは聞きたいよ。あいつは一体誰だ?」
 わたくしはコンパクトミラーの経緯を話しました。
「とんでもないものをもらっちゃったな。どこかの寺にでも預けたら?」
 愛田は深刻そうな目でわたくしを見たとき、ポケットのコンパクトミラーが震え始めました。
 開けると、申し訳なさそうな「わたくし」がいました。
「勝手に身体を借りて悪かったよ。ただ栗山も都子も後悔させたくなかったし、あたしも後悔したくなかっただけなんだよ」
「そう……だったのですか」
 彼女は「ウソ」を言っているのかもしれません。しかし、わたくしは、彼女のそのなんともいえない憂いをおびた目から、本当のことだと信じることしかできませんでした。
「何一人で鏡に向かって」
 愛田はわたくしの顔を覗き込みます。愛田より、「わたくし」の話を聞くのが先です。無視します。
 わたくしは大きく深呼吸をすると、
「どうして歯織がテンバイヤーだと分かったのですか?」
 「わたくし」に尋ねました。
「聞いたことがあるんだよ。主催者側がどうもチケットの横流しをしているらしいと。でも決定的な証拠がないみたいだったんだ」
「はあ……」
 わたくしは変な声しか出ません。
「で、昨日のアレを見て、もしかして、ってピンときただけだ。カマをかけたらビンゴだったっていうこと。あとで週刊誌にでも送ろうぜ。事は大きくなればなるほど、解決しようとする力も大きくなるって、幼馴染みが言ってたから」
「でもどうしてあなたがそんな話を知っているのですか? まるであのアイドルの身内みたいなことですよ。それか、以前、こんな風に芸能人の誰かに取り憑いたことでもあるんですか?」
 わたくしは疑問が起きた質問を「わたくし」に尋ねます。
 「わたくし」は一瞬暗い顔をしたかと思うと、やや気怠げな目で、
「あたしのコトはどうでもいいだろ。あたしは栗山の絶望のきっかけを調べた。で、あたしの持っている情報と照らし合わせたら、ビンゴだった。それだけのことだ」
 と、強い口調で言いました。
 これ以上、「わたくし」から情報が得られなさそうです。どうしましょうと考えていると、
「おい、鏡に向かってなにひとりでブツブツ言っているんだ?」
 愛田が不思議そうな顔でわたくしを見ます。愛田の存在を忘れていました。
「ああ、さっき、わたくしの身体を動かしていた……悪霊? みたいな……人……? うん……。よく分からない、そんな感じの方と会話をしていたんです。どうやら、この身体がないと意思疎通が愛田とはできないようで……」
 愛田はキョトンとした顔をします。ああ、こんなオカルト、絶対バカにされる、とヒヤヒヤします。
 しかし、
「そうか。だったら、その彼女に名前をつけないとダメだな」
 愛田は深く二回頷きました。
「え?」
 「わたくし」とわたくしの声がハモります。突然、なんでしょう?
「だって、篠座とは違う存在なんだろう。だったら、名前をつけなきゃ、区別つかないんじゃないか、ってこと」
「はあ」
 再びわたくしたちの声はまたハモります。シンクロって本当にあるんですね。
 愛田は鏡を指さし、
「だから、その鏡の中のお前! オレはあんたのことを『闇子』って呼ぶからな。ミヤコでヤミコ。いいだろ? 面白いしさ!」
 としたり顔で言いました。
「はあ? 勝手に変な名前をつけるんじゃねえよ」
 「わたくし」――闇子はあきれた様子を見せます。
「でも、愛田の言うことはもっともです。わたくしもなんて呼べば良いかわからなかったので。ぐっじょぶ、です。愛田」
「久々に褒めてくれたなあ、篠座」
 愛田は満面の笑みを浮かべます。
「ではよろしくお願いしますね、闇子」
 わたくしは鏡の中の闇子に微笑みます。
 一拍おいた後、
「仕方ねえなあ。わかったよ。こちらこそよろしく頼む、都子」
 アンニュイに笑いました。

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