何も聞こえない。

見慣れたはずの自分の部屋が、色を失い、
ペンで書いたような歪な線画に変わっていく。

音もなく進み続ける時計の針が、
吐き気を催すような焦燥感を産み出し続ける。

視覚による錯覚なのか、
温度を感じないのに寒い。

逃げるように部屋の角でうずくまり、
ただ状況が変わる事を祈るだけ。

こうなってから、もう7回ほど力尽きて眠った。

何日経ったのかは早い内にわからなくなった。

窓から見える外の世界は、色鮮やかで
すでに懐かしさを覚える世界が広がっている。

何度か外へ出ようと試みたが、
その度に恐ろしくなってやめた。

気が付けば、窓も窓枠も線になっていて、
もはや開くことすらできそうになかった。

次第に部屋の中の線が少なくなっていく。

さらに、3回ほど眠り、
心が耐えられなくなった。

力の限り叫んだり、壁を叩いて暴れたが、
相変わらず音は出ないし、状況は変わらない。

しばらくして、時計の線も窓も消え、
真っ白な部屋と自分が残った。

そうなってから、ようやく、
部屋に一本のボールペンがあることに気がついた。

考えたわけでは無かったが、
無意識のままにそのペンを握り、

壁に絵を描いてみた。

ヘタクソな犬の絵。

自分の描いたひどく不出来な犬の絵が
急に愛おしくなり、なんだか可笑しくて笑った。

久しぶりの心地よい感情に
安心と可笑しさが混ざって、涙がこぼれた。

絵なんて描いたのはいつぶりだろう。

そんなことを考える程には余裕が出来た。

すると、犬が鳴いた。

自分の描いた不出来な犬の絵が鳴き声をあげたのだ。

突然の音に驚き、心臓が跳ね上がった。
それと同時に鼓動が聞こえ始めた。

自分が生きてることを知った。

不出来な犬は長さの違う脚を交互に出して歩き始めた。
部屋の壁を自由に動き回っている。

もうひとつ、犬を描いた。

今度は出来るだけ丁寧に、しっかりと。
それでも不出来には違いないが。
今度の犬はさっきの犬よりも大きな声で鳴いた。

それから何匹も犬を描いた。

描く度に犬の絵は上手くなり、より本物らしく動いた。

数十匹の犬が仲良く遊び始めた頃、
一匹の犬が壁からこちら側へと出て来た。

平面体の線のままではあるが、
その身体に触れることが出来た。

強く抱き締めると自然と涙が溢れた。

涙の落ちる音が部屋に響き、
犬達が吠えるのをやめて
次と次と壁から抜け出し集まってくる。

不出来な犬達に囲まれて1度だけ眠った。

それからは色んな物を描いた。

机や椅子や新しいボールペンなんかを。
描いたものは壁から取り出すことが出来た。
果物や食事は口にすることは出来たが、
無味無臭無感覚。何も感じる事は出来なかった。

ふと、思い立って、
壁に赤い絵の具を描いた。
赤いといっても、
チューブの絵に「あか」と描いただけだが。

それでも、取り出した絵の具のチューブからは、
鮮やかな赤色の絵の具を出すことが出来た。

雄叫びに近い声をあげた。

人生であんなに喜びの声を上げたことはない。

まず、犬達に赤い首輪を描いてやった。

全部の犬に首輪を着けて、名前をつけた。

次に赤いリンゴを描いた。

取り出して齧ると、仄かにリンゴの香りがした

黄色の絵の具を描き、リンゴの中身を描いた。
ると少しだけ甘い味がして、胃の中に落ちた。

それと同時に腹がへった。

それからは次々と色を描き、絵を描いた。

食べ物を描いて食べる度、
味や香り空腹が甦り、火を描けば熱が甦った。

そして、感覚が元に戻る度に、
自分の身体にも色が戻り始めた。

夢中になって描き続けて、
部屋中が絵で満たされた時。

描いた覚えのない扉が開いた。

外の世界へ飛び出すと、
そこには、誰かが描いた
歪で色鮮やかな絵がたくさんあった。

世界は、誰かが描いた絵で出来ていた。

様々な人間が、
様々な色で描いた、
たくさんの絵で。

太陽も、風も、水も、
美しい物も、醜い物も、誰かが描いた。

そうして、世界は出来てきた。

これからも、そうやって出来ていく。

部屋の中から犬の鳴き声が聞こえた。

さて、次は何を描こうか。






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