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天草四郎な具雑煮

長崎県島原の名物に具雑煮があります。
餅の他にも卵焼き、椎茸、蒲鉾、春菊等々、その名の通り具沢山。
島原の乱の時、一揆勢が食べた雑煮を再現したとか。しかし、私は言いたい。
「籠城していたのに、貴重な食糧をふんだんに使った雑煮なんて作れる訳ねえだろ」
実際に、原城に籠っていた兵の腹を裂いた所、胃の中には海藻しか入っていなかったと言います。
より質素で、しかも美味い雑煮を作ってやるという難題に挑戦。


材料
しまった、ブレた。

餅 好きなだけ
干し海老 適量
炒り子  適量
塩麹   適量
葱    半分
白菜   1/4
昆布   5センチ

塩が写っているけど、使いませんでした。

寛永十四年(1637)に勃発した島原の乱。その指導者だったのが天草四郎。
本名は益田四郎時貞。この時、十六歳。
この時より25年前の慶長十八年(1613)、島原から追放された宣教師マルコスが
「25年後に神の子が現れて、人々を救うだろう」と言い残したという。その年に勃発した乱で、指導者はカリスマ性ある美少年。


昆布で出汁を取る。

様々な奇跡を行ったという話が天草四郎にはあります。
海の上を歩いて渡った。盲目の少女に触れると、その少女の目が見えるようになった。四郎の掌に鳩が止まり、卵を産み、その卵からキリシタンの経文が出て来た等。
疑り深い私は考える。本当か?奇跡だけではなく、天草四郎なる人物自体がです。


葱を斜め切り

16歳の少年が一揆勢を指揮して、幕府軍に戦を挑む。いくら昔の人が早熟だったとしても、周りの大人達がそんな少年に運命を委ねるものだろうか?
宣教師の予言というのも後付け?今のようにメディアもなく、しっかりとした記録などなければ、そんなことがあったと誰かが言い出せば、そうかもしれないと噂が尾ひれを付いて広がった?

乱のざっとした経過を見てみます。肥後(熊本県)の天草、有明海を挟んだ対岸の肥前(長崎県)の島原の百姓、特にキリシタンの信者達が起こした乱は四か月に渡り、原城に籠って幕府軍と戦い、持ちこたえました。


白菜はざく切り。

島原はキリシタン大名、小西行長の領地だった所で、その教えに帰依する者が多かった。江戸時代、島原の領主となった松倉重政は禁教は勿論ですが、過酷な税や年貢を領民に課す。それに耐えかねた領民達がキリシタンの教えを心の糧に立ち上がった。最終的には当時、廃城となっていた原城跡を改造、そこに籠城した37000人が13万近い幕府軍と戦った。というのが大体のイメージかと。


具をすべていれて、沸騰させる。

乱を指揮したと言われる天草四郎ですが、眉に唾をつけたくなる奇跡以外には、彼の人柄とか性格を偲ばせるような逸話がまったく見当たりません。
本当に存在した人物?もしかしたらそういう人物がいると、大人達がでっち上げた?神秘的な人物が上に立っていると思わせた方が、人々を惹きつけやすいという計算?


煮えたら、味を見ながら、塩麹を少しづつ投入。好みの濃さになるまで。

島原の乱とは実はキリシタンが起こした一揆ではないという見方もあります。この戦いをキリシタン一揆ということにしたかったのは幕府かもしれません。
公儀に逆らうキリシタンとは不届きな者達であるというイメージを広げるため?天草四郎とは実は豊臣秀頼の息子だったという話があります。根拠としては、天草四郎が用いた馬印は豊臣家と同じ瓢箪。つまり本当は豊臣家再興の戦?豊臣家に生き残りがいたことが知れると都合が悪いので、殊更にキリシタン一揆としておきたかった?
「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」というざれ歌が大坂落城の後、流行ったとか。鹿児島には秀頼の墓と言われる物もあります。もし秀頼が生存していたとしたら、16,17歳位の子が寛永十四年当時、いたとしても無理はない。


天草四郎な具雑煮。

焼いた餅を入れた椀に注ぐ。塩麹の白濁した汁は淡い塩味。昆布出汁だけではなく、干し海老や炒り子からもいい出汁。
葱と白菜という最小限の野菜ですが、カルシウムやベータカロチン、ビタミンCと栄養はこれで十分。具雑煮ではなく、これは具少煮?

四か月に渡った籠城戦、幕府はオランダ船に砲撃まで依頼。一揆勢も粘ったものの、援軍が来ない籠城戦は無意味。最終的には落城。
一揆勢は唯一人を残して皆殺し。その一人は南蛮絵師、山田右衛門作。彼は幕府と内通していたので助命。一揆勢に妻子を人質に取られて、止む無く籠城に加わったと言われます。
内通していた一人を除いて皆殺し。これも何か隠したいことがあっての処置?妄想が広がる。

昔、原城跡を訪れたことがあります。その旅で具雑煮も食べたのですが。
海に面していて、眺めがよい。それ故、一日、眺めていたくなる城ということから、日暮城とも言われていたとか。多くの血が流れたであろう城跡は畑などになっていて、長崎平和祈念像で知られる北村西望作の天草四郎像がありましたが、これが丸っこい体形と顔つきで、それを見た子供達が
「桃太郎さん、桃太郎さん」と歌っていたのを思い出します。
そんなことを思いながら、天草四郎な具雑煮をご馳走様でした。

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