見出し画像

しるこうでおま

昔の日本には汁講という習わしがありました。主人は汁だけを用意して、招かれた客はそれぞれ自分の食べる物を持ち寄る、いわばポットラックパーティ。
その宴会を名前とした店が京都にあったのを思い出します。
志る幸。
もう随分、前になってしまいましたが、訪れたことがあります。白味噌汁がメインで、他に京都らしい料理やご飯がついた利休弁当なるランチを食べましたが、2000円以上したかなあ。検索したらまだ営業していました。
四条河原町 志る幸[しるこう]− 志る幸のいわれ・お料理 (shirukou-kyoto.jp)

味噌汁の具が何だったか等、もはや細部は思い出せませんが、白味噌汁を味わいたくなり、作ってみました。

材料

具は里芋と人参を用意。
昆布で出汁を取って、皮を剥いて小さく切った里芋、拍子木形に切った人参を入れて茹でる。

四条河原町にある志る幸。その場所は幕末には薪炭商でした。屋号は桝屋。店主は喜衛門。実は過激な攘夷派で大津出身の古高俊太郎という志士。同じく過激な長州の攘夷派と公家や宮家とを繋ぐ間者。
薪炭商を隠れ蓑として武器弾薬等を集めて隠していました。
元治元年(1864)6月5日、新選組に踏み込まれて捕縛され、当時の屯所であった壬生の前川邸に連行され、拷問。
なかなか口を割らない古高に業を煮やした土方歳三。(どかたとしみつという私の名前に漢字を当てると、こうなる)
恐ろしい拷問を古高に課す。
逆さ吊りにした古高の足の甲に五寸釘を貫通させて、釘の頭に火が点いた蝋燭を固定。傷は痛いわ、鉄の釘を通じて熱は伝わるわ、しまいには溶けた蝋が傷口に流れ込む。耐え切れなくなった古高、ついに恐るべき計画を白状。
京都市中に潜伏している過激な浪士達、風が強い火を選んで市中に火を放ち、騒動を起こして、そのどさくさに御所から天皇を拉致して、長州に御動座願うという。それを阻止すべく、新選組は市中を探索、それが新選組の名を一躍高くした池田屋事件に繋がる。

土方歳三が行った拷問、聞いているだけで痛くなりそうで、現代の取り調べでは決して許されないことでしょう。しかし、そこまでやって古高の口を割らせたからこそ、過激浪士達の計画は未然に防ぐことが出来た。実行されていれば、多くの人々の生命や財産が脅かされたことでしょう。
土方歳三、そして新選組は誰かがやらねばならないことをやった。そう思います。(伏線)

てなことを妄想していると、野菜が煮えてきたので火を止めて白味噌を溶いて混ぜる。

人参は白い汁に映えるだろうという考えから投入。それと合わせる具として、大根にするか芋類にするか迷いましたが、ごろっとした芋の方を食べたい気分だったので芋。
しかし薩摩芋では、甘目の白味噌に入れては甘々。じゃがいもも何か違う。ということから里芋でしたが、正解。
ボリュームが出ました。
里芋には腸内環境を整える食物繊維、ガラクタン、体内の過剰な水分を排出する働きがあるカリウムと栄養価も素晴らしい。

汁講という習わし、古くは平安時代の習慣をルーツとしているという。戦国時代には武士の間でも盛んに行われ、こうした集まりで人々は共食し、談笑し、親交を深めたことでしょう。
もう師走ですが、まだ忘年会も中止したままの会社も多いようです。共に飲食して語らう。そんなささやかな楽しみも奪われて間もなく三年。
いい加減に目を覚ませ。日本人。
知り合いが集まって飲食するのがいけないのに何故、知らない人だらけの満員電車には乗っていいのか?
今の世の中、おかしなことだらけ。
コ▢ナ等というものは存在していない。そのことに気付け。
私の周囲でも、それに感染したとか言われる人々が増えてきた。しかし、体調が悪くなり、感染宣告を受けているのは和苦珍を打った人ばかり。あげくによくわからない原因で死ぬ人まで身近に。アレ自体の内容とか成分については、ここでは掘り下げないけれど、体調が悪くなると医者や薬品に頼ればいいという考えに染まり過ぎていた人があまりも多かったのではないか。だから我先に和苦珍に群がり、あげく免疫不全に陥り、普段なら罹らない病気に罹患しているのではないか?
自然な物、出来るだけ添加物や化学調味料を摂取しないようにして、食から免疫力強化を図る方が余程、生物本来の生き方に沿うていると思う。

甘味と滋味溢れる白味噌汁を味わいながら、そんなことを考える。
私は所詮、土方歳三程の男ではないものの、誰かが言わねばならないこと、やらねばならないことと思うから時々、こういうことを呟く。たとえ、耳を貸す者が殆どいないとしても。

この記事が参加している募集

#今日のおうちごはん

18,601件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?