毛利輝元マたま
組織や家にとって三代目は分岐点。発展させることが出来るか、衰退させてしまうか。創業の初代とそれを傍で見て育ち、手助けしながら薫陶も受ける二代目。生まれながらにして、事業を受け継ぐ三代目。
結果として勢力を後退させてしまった三代目を妄想しながら料理した記録。
トマト 2個
卵 2個
厚揚げ 1丁
生姜 1欠け
すりごま 好きなだけ
片栗粉 適量
醤油 大匙2
味醂 大匙2
天文二十二年(1553)に生まれた幸鶴丸が後の毛利輝元。
祖父が当時、日本最大の勢力を築いた毛利元就。
家督を継いだ長男の隆元が急逝したため、11歳の幸鶴丸が当主に。しかし元服前ということもあり、元就が後見。
その二年後、永禄八年(1565)に元服。室町幕府十三代将軍の足利義輝から偏諱を賜り、輝元と名乗る。
これでいよいよ元就も肩の荷が降りて隠居とはいかず。
輝元が懇願。
「父上は四十歳になるまで後見を受けていたと聞いています。私もまだまだ後見が必要です」
元服した以上、自分が毛利家を引っ張るという力強い言葉はなし。
元就が亡くなった後は吉川元春、小早川隆景という力強い叔父達が毛利家を盛り上げる。だからなのか、輝元は素行があまりよろしくないこともあったようで、他の家臣に見えない所で隆景によく折檻されていたとか。
少し回りくどくなりますが、輝元の行動に繋がりそうな伝説が山口に。
姫山伝説。
山口の城下町、美人の娘。殿様が求婚するが、婚約者がいるのでそれを拒む。父親の長者が断りに城に出向くが帰って来ない。つまり殺された?
それだけではすまず、求婚を拒まれた殿様は可愛さ余って憎さ百倍とばかりに娘を捕らえて、姫山の古井戸に吊るして蛇を投げ込む。
「美しく生まれたばかりに、こんなメに遭う。同じメに遭う女が出ないように、この姫山から見える範囲には美人は生まれさせない」というのが遺言。
姫山伝説ですが、これの元ネタになったと思われる逸話が輝元にあります。
後に毛利家が秀吉に臣従してからの話。
毛利家家臣、児玉元良の娘、周姫が門前で遊んでいると、通りかかった輝元の目に止まる。周姫の美しさに魅せられた輝元は度々、児玉家を訪れる。
それを快く思わなかった児玉は娘を杉元宣に嫁がせる。
諦めなかった輝元は家臣に命じて周姫を強奪。強引に側室にしてしまう。
妻を横取りされた杉は、いくら殿様でも理不尽なりと秀吉への直訴を計画。
外聞が悪いどころか、大名らしからぬ色欲に走った不行跡として秀吉に難癖を付けられ兼ねない。
小早川隆景により杉は謀殺。毛利家を守るためとはいえ、何ら咎のない家臣を斬らねばならなかった隆景も苦しい心中だったかもしれません。幼少から厳しく指導してきたつもりでも、輝元には君主としての道がまったく身に染みてなかったか。
殿様の心無い行為をそのまま伝えることが憚られるので、山口の人々は形を変えて語り伝えたのが姫山伝説?
周姫はその後、毛利家の居城となった広島城の二の丸に居住したので「二の丸殿」と呼ばれるように。輝元の世継ぎとなる毛利秀就を生む。
長州藩初代となる秀就の生母となりましたが、正室に睨まれる羽目に。
彼女は殿様に翻弄されただけなのに。
毛利家が広島から山口の萩に移ることになった時には、城に入ることを許されず。慶長九年(1604)に32歳で病死。
死後、毛利一族の菩提所に葬られることも許されず。
明治になってから、やっと毛利家菩提所の裏に墓が移されることに。
不届きな行為の後始末までしてくれた強力な叔父、小早川隆景の死後、輝元は諸事、自身で決断せねばならない立場。の筈がどうもリーダーシップが取れていない感。
関ケ原では西軍の総大将となり、大坂城に入るが、自身は其処から動かず、決戦場へは吉川広家と毛利秀元、安国寺恵瓊が出陣。
東軍と通じていた広家が毛利本軍の進軍を阻んだこともあり、輝元は総大将とはいえ、命は助かる。所領も安堵という約束でしたが、あっさりと反故。
家康の方が上手。大坂城を出ると改易の沙汰。
吉川広家に周防、長門の二か国を与えると家康からの伝達。
広家が自分の戦功に代えて、どうか毛利本家を安堵して頂きたいと嘆願したので、どうにか毛利家は存続。
新たに築城する場所として、輝元は山口を望んだのですが、幕府により却下。
山陽の山口では瀬戸内を通って上方に出やすいので、不穏な動きをするかもしれないと警戒されたから。幕府により新たな築城候補として示されたのが山陰の萩。
敗者の宿命。幕府の命令には逆らえずに萩に新城を作る。
醤油と味醂の甘辛味が厚揚げと卵によく絡む。加熱したトマトから程よい酸味。厚揚げに塗していた片栗粉がとろみを加えてくれる。
微かに感じられる生姜の風味がまたよし。
タンパク質たっぷり、リコピンもたっぷり。
吉川元春、小早川隆景という強力な叔父が亡き後は吉川広家という後継者により、毛利家は家名を繋げられた。毛利本家を疎かにするなという元就の遺戒は見事に守られたと言えます。輝元はその象徴的な役割というか、主体的にはあまりいいことはしていない感。
今回、豪華二本立てとして、実際に毛利輝元が食べた菓子を掲載。
昆布 2枚
米粉 適量
生姜 適量
山芋 1本
味噌 適量
黄な粉 適量
天正十六年(1588)輝元は秀吉の招きで上洛。
その時、大坂城での接待で出された料理の一品を自分なりに再現しています。
秀吉自らの点前により茶を振舞われた後に会席料理。その〆に出された料理。というよりは菓子。
煮上がったら黄な粉を塗す。
「いもかご」ではありません。「いもごみ」と読みます。
練った山芋と米粉に生姜味噌が素朴な甘味。砂糖という物がない時代の素朴な茶菓子という雰囲気。
現代のスイーツのような人工的な甘さはありません。味噌の甘さ。考えようによっては、これでご飯が食える?
毛利輝元、戦国の君主としては物足りない所がある殿様だったかもしれません。それでも親戚衆に恵まれて、祖父、元就の築いた領国を大きく削りながらも家名を繋いだ。そんなことを妄想しながら、毛利輝元マたまと芋籠をご馳走様でした。