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ネギトロマ黒田官兵衛

「黒田官兵衛、苦笑い、一生ツキがなかったと」
武田鉄也が率いたバンド、海援隊『二流の人』の歌詞。
数年前、岡田准一主演で大河ドラマにもなった黒田官兵衛ですが、ふとこの歌が料理しながら頭に浮かびました。
ということで、マグロを料理しながら黒田官兵衛を妄想した記録。


材料

葱         1本
鮪ぶつ切り     1パック
大和芋                  半分
出汁つゆ(二倍濃縮)25ml
水         25ml
醤油        大匙1
  

黒田官兵衛、諱は孝高。隠居後の号は如水。キリシタンとしての洗礼名はシメオン。名前が一杯ですね。
官兵衛が生まれたのは播磨国。戦国末期、ここは西へ伸びて行く織田信長と中国地方の雄、毛利輝元の勢力がぶつかり合う緩衝地帯。
守りを主としている毛利よりも、攻撃を主としている織田の方がこれから伸びると踏んで、織田家に接近。
仕えていた小寺家にもそのように勧める。
岐阜に赴いて、信長に謁見。その時に名刀、圧切り長谷部を賜ったと伝えられます。


大和芋を摺り下ろす。

中国地方の司令官に任じられた羽柴秀吉の寄騎となり、織田家の天下平定事業に貢献することに。
秀吉には竹中半兵衛という軍師がいましたが、官兵衛もまた軍師的な立場で仕えたことから、半兵衛と官兵衛の二人は両兵衛と称されました。


葱を微塵切り。

秀吉と官兵衛の逸話で印象に残っているのが、茶に関すること。
当時、武士の間では茶道が流行。というより信長が家臣達に礼儀作法を学ばせるために奨励。功績があった家臣には名物と呼ばれる茶器を褒美として与え、茶会の開催も許可制に。
茶器を褒美とするのは、信長なりの深謀遠慮だったのではないかと妄想。
土地は有限ですから、領地を与えていくという方式はいずれ行き詰る。土地に代わる価値観を創造しておく為ではなかったか。茶会を開く権利もそれなりの権威と成り得る。
それはともかく、官兵衛は茶の湯にさっぱり興味が持てず。そのことを秀吉に告げると、茶室に招かれました。
ところが、茶室の中で秀吉はまったく茶など立てず、政治向きの密談をひそひそと話すばかり。
「これが茶の効能じゃ。大っぴらに出来ない話も茶にかこつけておけば、こうして狭い茶室で話せる。そなたをまともに城に呼びつければ、他の者が訝しく思うだろう」
なるほどと感心した官兵衛、以後は茶を利用。


葱と摺り下ろした大和芋を混ぜる。かなり粘る。

苛烈な性格だったためか、信長は多くの家臣に裏切られたり、謀反を起こされています。もっとも有名なのは明智光秀ですが、摂津、有岡城主の荒木村重も反旗を翻す。
この時、官兵衛の主であった小寺政職も呼応しようとしたため、官兵衛は村重を説得しようと有岡城に赴きましたが、一度、謀反を起こしたからには信長は自分を許す筈がないと考えた村重が、官兵衛の説得に耳を貸す筈もなし。捕らえられた官兵衛は狭い地下牢に幽閉。
この時、城の外でも大変なことが。
いつまで経っても有岡城から出てこない官兵衛に痺れを切らした信長は、人質として預かっていた官兵衛の息子、松寿丸(後の黒田長政)を殺せと命令。
この時、機転を利かせたのがもう一人の兵衛、竹中半兵衛。
信長には殺したと報告して、密かに匿いました。


大和芋、葱、調味料を混ぜ合わせて、粘る芋を滑らかにしていく。

牢の格子に藤が蔓を張って、垂れ下がっているのを見ていた官兵衛、それに逞しい生命力を感じたらしく、生きて此処を出たら、家紋を下り藤にしようと思い定める。
幽閉は一年半に及びましたが、荒木村重は妻子まで捨てて単身で逃亡。有岡城は開城。これにより官兵衛は救い出されましたが、狭い牢内にずっといたために脚が不自由に。

鮪を投入。

半兵衛のお陰で息子は健在。それでも官兵衛は信長にわだかまりを抱いた?
半兵衛がいなかったら、どうなっていたことか。自分は信用されていない。
その思いがあったから、本能寺の変の一報を耳にした秀吉への
「御運が開ける時がきましたな」という耳打ちに繋がった?
この耳打ちで、秀吉に警戒されることになったと思います。
秀吉にしてみれば、本心を見透かされる恐怖を感じた?
天下統一を成した後、秀吉は側近達に、自分が亡き後、天下を取れる器は誰かと問うたことがあります。
徳川家康とか上杉景勝とか、様々な名前が挙がりましたが、秀吉の答えは
「足の悪いやつだ」と返答。官兵衛のこと。


しっかりと混ぜる。

秀吉の死後、次の天下を狙って動き始めたのは徳川家康でしたが、官兵衛も蠢動。
息子の長政は東軍に属していましたが、官兵衛は領地である豊前の中津で兵を集める。この時、秀吉によって改易された大友吉統がお家再興を目指して挙兵。これと豊後の石垣原で合戦。これを打ち破った後も戦いを止めず、今度は北上して小倉城を攻略。豊後国と豊前国を制圧。
官兵衛の思惑は、このまま九州を切り取れるだけ切り取り、その勢いで東に向かい、関ケ原の勝者と一戦を交えることにあった?
中央での戦が長引けば、その間に官兵衛の勢力は大きく膨らむ。家康にしろ三成にしろ勝者は消耗しているだろうから、勢いついた官兵衛の軍が叩く。その時には当然、息子の長政も背後から敵を挟み撃ちさせる。
思惑が外れたのは、関ケ原の合戦がわずか6時間で決着してしまったこと。
すべて夢に終わってしまいました。


ネギトロマ黒田官兵衛

ごろごろとした鮪に摺り下ろし芋がよく絡む。葱がアクセントになり、出汁醤油で幾らでも食べられそうな逸品。味変として山葵を使えば、更に美味しく。
葱のアリシンが食欲増進させ、箸を進ませる。鮪のDHAやEPAをしっかりと摂取。魚は不飽和脂肪酸の宝庫。

関ケ原での長政の活躍により、黒田家は筑前に加増転封。
戦後、家康が自分の手を取って、よく働いてくれたと感謝したと長政は父、官兵衛に報告。
「それはどちらの手だ」
「右手です」
「その時、おまえの左手は何をしていたのだ」
どうして空いている左手で家康を刺さなかった?と言いたかったようです。憮然とした顔が目に浮かぶ。

天下取りの最後の夢が潰えた官兵衛、長政に形見として弁当箱を残しました。残した言葉は、
「誰でも飯を食べなければ生きてはいけぬ。国を富ませ、士卒を強くするのが治世の基。それを忘れぬように」

海援隊は一生、ツキがなかったとうたっていますが、有岡城で殺されずに生き延び、息子も半兵衛の機転で助かった。決してツキがなかった訳ではないと思いつつ、ネギトロマ黒田官兵衛をご馳走様でした。

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