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栃織田長益には有楽町で逢えません。

もはや自分でも意味不明な題名になってしまいましたが、『有楽町で会いましょう』を脳内BGMに流しつつ料理して、織田信長の弟という戦国サラブレッドな位置に生まれながら、武以外の道に生きた人物を妄想した記録。


材料

栃尾揚げ   1個
葱      1本
ピザ用チーズ 結構多め
昆布     好きなだけ
醤油     大匙2
味醂     大匙1
蜂蜜     小匙半分
黒摺り胡麻  たっぷり
七味唐辛子  少々

新潟県の名物、栃尾揚げ。
いわゆる油揚げですが、普通の油揚げよりも分厚く長い。

越後名産なり。

栃お、長いということから妄想した人物が織田長益。
織田有楽斎という名前の方がポピュラー。
織田信長よりも13歳下の弟で通称は源吾郎。
幼少期の傳役は兄と同じく平手政秀。
平手は和歌や茶道、蹴鞠等にも通じた教養ある人物で、長益もその影響を受けたと思われる。後に政秀の娘を正室にしたことから、その影響は更に大きくなった?


真ん中に切り込みを入れてチーズを詰め、オーブントースターで焦げ目が付くまで焼く。

そのためなのか、生まれ持った性格だったのか、長益はどうも武士らしい風が薄かった。
兄、信長の美濃攻めが始まり、その一つ、森部の戦いが21歳の長益の初陣。
佐々成政が介添えで出陣したものの、右往左往するばかりで武功は挙げられず、そればかりか佐々成政は長益の面倒を見るばかりでろくに活躍出来ず。
帰路には落馬して骨折という信長の弟とも思えないどんくさ振り。


葱を微塵切り。

武芸はからきしでしたが、子供の頃から学問好きだったことから、その教養を買われて、以後は戦の前線よりも交渉役や信長の嫡男、信忠の教育等の役割を仰せつかる。
合理主義者の信長は弟は武よりも文の方が適役と見て、そちらに専念させたということ。


葱を油で炒める。

以後は信忠を補佐して、自ら前線に出ることはなくても後方で指揮や支援。そうした日々が10年程続いた後に起こったのが本能寺の変。
兄、信長が明智光秀に討たれ、信忠と長益にも危機が迫る。
二条城に籠って戦うものの、明智勢に激しく攻め立てられて、信忠は自刃。
ところが、長益は包囲の隙を見つけて城を脱出。安土城へ逃げ込む。
これを見聞した都人の間には、戯れ歌が流行った。
「織田の源吾は卑怯者よ。お腹召せ召せ、召さしておいて、自分はさっさと逃げるなり」


細かく切った昆布を投入。

その後は信長の次男、信雄に庇護を受ける。
織田家の天下を簒奪しようとする秀吉に対抗するために徳川家康と組んで小牧長久手の戦い。
ところが信雄は家康に無断で秀吉と和睦。
秀吉側の使者として徳川方と停戦交渉に当たったのは長益。
家康から見れば、どの面下げて?と思ったことでしょう。


醤油、味醂、蜂蜜、黒摺り胡麻を投入。混ぜ合わせる。

小田原征伐後、秀吉から提示された国替えの話を素直に受け入れようとしなかった信雄は改易。
この時、長益は剃髪、無楽と名乗り、秀吉に詫びを入れる。
「そんな辛気臭い名前は止めや、有楽にせい」と秀吉に言われて以後、有楽斎と名乗り、お伽衆として迎えられる。
秀吉に上手く取り入ったのか、或いは秀吉からすれば信長の弟という主筋の者をお伽衆とすることで主従逆転を示すためだったか。双方の利害一致?


七味唐辛子を振った後、水分が飛んだ状態。

茶の湯に通じた織田有楽斎は有楽流という独自の茶道も確立。これは武家に特化した作法で、陣中で甲冑を着た状態で行う所作が取り入れられ、千利休の弟子ではありましたが、その茶室は利休風の狭い部屋ではなかった。
愛知県犬山市に有楽斎の茶室、如庵が遺されていますが、やはり利休風とは異なる。
有楽斎が作った茶杓が残っていますが、これを有楽斎は「玉ぷりぷり」と命名して使っていたとか。独特なセンス。


焼き上がった栃尾揚げ。

秀吉死後は徳川家と強く結ぶことが豊臣家存続の道と信じて、有楽斎は兵を率いて東軍として関ヶ原に参戦。しかし、ここでも武将とは言えそうもない失態。
戦場に居るというのに気構えが足りなかったのか、西軍の蒲生頼郷に襲われて、ここでも落馬。
そこに家臣達が駆け付けて、よってたかって蒲生を討ち取る。
怪我の功名ならぬ落馬の功名によって戦後、大和国に三万二千石の領地を得る。


栃織田長益には有楽町で逢えません。

昆布と葱の醤油タレ、黒くて見栄えはあまり良くないが、思い付きで作った割にはいい味となった。
昆布には抗酸化作用、抗がん作用があるフコイダンが含まれる。胡麻にも抗酸化物質、ゴマグリナンにセサミンとアンチエイジング食。
こんがり焼き目を付けた栃尾揚げも香ばしく、中から溢れるチーズと共にタンパク質もたっぷりと頂ける。
蜂蜜でコクが出た甘辛な醤油味に七味唐辛子が一味、引き締め効果。

関ヶ原後も有楽斎は大坂城に出仕。
大坂と関東が手切れとなった大坂の陣では、こここそ自分の出番と和平交渉。しかし主戦派の者達から疎まれ、居場所を失って大坂城を退去。意地の悪い見方をすれば、ここでも逃げた?
戦後は京都で隠棲。
したのですが、ここに奇妙な話を一つ。
東京の有楽町(ゆうらくちょう)は織田有楽斎が住んでいたので、そう呼ばれるようになったと千代田区のホームページ等にも書かれているのですが、彼が江戸に居住した史実はありません。
彼の名前の読みは「うらく」であり「ゆうらく」ではない。漢字が同じというだけのこじつけで明らかな誤りなのに、千代田区という公的機関がそれを公認しているのはどうなのか?
お上がやることは間違いだらけの典型?

華々しく死ぬばかりが能ではないとばかりに生き延びて、自身の名を冠した茶道を遺した織田有楽斎は文化人としては一流だったと言える。生まれる時代と家を間違えた?とも言える織田有楽斎こと長益を妄想しながら、栃織田長益には有楽町で逢えませんをご馳走様でした。

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