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これまでと、いまと、これから

世界はこれからどう変わっていくんだろう。
そんな漠然とした不安がわたしを襲う。そんな時は決まって自分にこう話しかける。

「よく考えてみたらこの先の未来が分かっていることなんて、これまで一度もなかったじゃないか」と。

去年の今頃タイに移住したわたしだったけど、タイへの移住が決まったのは渡航の2か月前のことだった。去年が終わるころには「春にはどこで暮らしてるんだろうね」なんて話していたし、今だって1年後どこに住んでいるのか自分のことなのに見当がつかない。

リモートワークが加速するとか、一週回ってオフィスワークが重要視されるとか、学校の始まりが4月から9月になるかもしれないとか…。
いろいろな予測がされているけれども、それはあくまでも予測。

でもきっと、この現状が収束した後のことを完璧に言い当てられる人なんてどこにもいない。

 

今の状況が収束しても、良くも悪くも、きっともう前の世界には戻らない。
でも、よくよく考えるとそんなの当たりまえじゃないか。
今テレビがない戦前の時代に戻ることも、大名が地域を統率してた時代に戻ることも、マンモスを追っかける生活を送ることもい。

ただ、本来なら10年、20年とかけて進んで行くはずの時計が、数か月で突然にすすんでしまっただけなんだ。
きっとそれは小学校からゆっくり培っていくはずの学習を入学してすぐの半年で高校生の分まで終わらせるようなもので。冷静に考えてみたらこの状況に疲れない人がいないはずがなかった。

 

「だったら今を一生懸命生きるしかないのでは?」

これがここ数日いろいろなことを考えて私が出した結論。

いつだってそう。
わたしたちは今を一生懸命生きていくしかない。
今を一生懸命に生きた延長線にようやく生まれるのが「未来」なのではないだろうか。今のわたしは過去「今を生きたわたし」が織りなす存在であり、きっと「今を生きて」はじめてそれが未来のわたしという存在になる。

 

実はここ数週間、なんとなく調子が悪い日が続いていた。
それはきっと不規則な睡眠が原因でもあるだろうし、実家に帰ってきたことで誰かに生活をあわせるストレスもあっただろうし、大きくはない物の仕事にも影響があった。

そういう小さな小さな積み重ねが積もり積もって、まるで水の中を一生懸命走っているような、もがいているような感覚を感じていた。

誰かをうらやんではそんな自分を蔑んでいたし、
だからといってみないようにすればそれはそれでストレスになる。
ことあるごとに鳴るSlackやLINE、Messengerの通知や、起きた時にたまっている未読の数。

少しずつ、すこしずつ、小さなもやもやを貯めこんでしまっていた。

 

それでも、こうやって現状を整理して、それで気づいたことがある。

「まっすぐ、自分にできることを愚直に。」

落ち込んでしまう自分も、元気に誰かとわいわいしてる自分も、締め切りに追われながら慌てて仕事をしている自分も、全部全部自分なのだから、まるっとそのままの自分と一緒に”今できること”を、ひとつひとつ愚直にこなしていくしかない。

 

アフターコロナもウィズコロナも関係ない。
わたしは一緒に生きていく人も、生きていく社会も、生きていくための仕事も自分で決めてやる。

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