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ひまわりのような言葉を届けたい|ライター未経験の私がライティングを勉強している理由


はじめまして!柚月 歩(ゆづき あゆむ)と申します。
現在は臨床検査技師として病院に勤務している傍ら、役者や声優として活動しています。

役者として活動しながら脚本も書いているわたしは、幼い頃から言葉を紡ぐのがだいすきでした。
何でもかんでも思い付くまま言葉を書き連ねていた私でしたが、いつしか言葉で誰かに寄り添いたいと考えるようになりました。
今回は、そんな私の心境変化とライティングを学びたいと思った理由をお話します。

1.死にたくなるほど辛いできごと


狭い狭いこの世界は、生き地獄だと知った


幼い頃は、母の顔色ばかり伺う子どもでした。
両親はわたしが物心付く前に離婚し、わたしの家は母と祖父母・叔父の5人暮らし。
わたしを育てる母は元気に振る舞ってはいるけれど、いつもどことなく辛そうで。迷惑をかけまいと母の顔色ばかり気にしていたのを覚えています。
当時の日記帳の内容は、母のことばかり。私にとって日記帳は、息苦しさを吐き出せて自己表現できる唯一の場所でした。

気遣い続けて生きてきた私でも、中学生に上がった頃、反抗期がやってきます。


一生忘れられない、母の強烈な一言


母に勉強しろと言われると激昂し、帰宅が遅いと怒られると拗ねて自室に戻る。
思春期の私は母におびただしいストレスを与えていたのだと今となっては反省しています。
ですが、当時の私にとっては母の言葉は耳障りな雑音でしかありませんでした。
作詞が趣味だったので、受けた雑音を歌詞に起こして四六時中書きなぐる日々。
それが私にとって、唯一のストレスのはけ口でした。

忘れもしない、中学2年生の夏の暑さも和らいできた頃。いつものように母に反抗していた私に、その言葉は突如発されました。


「あんたなんて産まなきゃよかった」


頭が真っ白になって何も考えられなくて、涙が勝手に溢れて、何の言葉も出ぬまま自室に戻る。
自分を勝手に産んだ母からの言葉だとは信じられませんでした。
後にも先にも、こんなに私の心をわし掴んで引きちぎった言葉は他にありません

幼い頃から言葉はあたたかいものだと信じてきた私が、言葉はひとを傷つけることもできるという事実を、はじめて知ってしまったのです。


2.絶望の先の光

死ぬことばかり考えていた私がもらった一通の手紙


馬鹿みたいに他人のやさしさを信じていた私は、少し人間が怖くなってしまいました。
一番近しい母ですら自分を否定してくるのだから、他人はなおさら私のことを良くは思っていないのだろう。
悶々と死を考える毎日。わたしにとっては死ぬより辛い毎日でした。

いつ死ぬかどう死ぬか、遺書を書いて算段していたある日、友人から一通の手紙をいただきました。よく授業中手紙を交換していましたが、ノートの切れ端でなくちゃんとした手紙をもらうのははじめて。

恐る恐る中を開けてみると、
一番大好きな祖父が亡くなったこと、悲しくて辛くて毎日泣いていること、
そして最後に、「どうしてもしんゆうのあなたに聞いてもらいたかった」と綴られていました。


どん底から私を救ってくれたのも、言葉だった


そのとき、目の前がふわっと明るくなりました。
友人を元気付けたい、死んでる場合じゃないと急に生きる勇気が湧いてきたのです。
誰かに必要とされていることが、わたしにとっての何よりの喜びだと気付くことができました。


3.あのときの友人のように


絶望を知った私だからこそ書けるもの


私は現在、臨床検査技師として患者様のお身体や心が少しでも軽くなるようなお手伝いをしています。
あのとき友人からいただいた心を胸に、満面の笑顔を拝見するため日々患者様のお気持ちに寄り添った接遇を心掛けています。

私は優しい人間でも善人でもありませんが、絶望を知ったからこそ誰かの心に寄り添うことができるのではないかと思います。
医療に携わっていく中で、いつしか患者様だけでなく世界中の息苦しさを感じている方に言葉を届けたいと考えるようになりました。

誰かの心にひまわりのような言葉を


私には文章力や表現力はありません。
でも、誰かの心にそっと寄り添いたい、あなたと一緒に生きていきたいと伝えたいという信念や想いはあります。

SHElikesでライティングを学び、読んでくれる誰かがほっと安心してくれるような文章を書きたい。
落ちても沈んでも、あと少しでも生きてみようかなと思っていただけるような言葉を届けたい。
ひまわりが重ければ、かすみ草のようなさりげないあたたかさを伝えたい。


少しでも、風にそよぐ草花や澄んだ青空に気付くひとが増えること。それが私の願いです。

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