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留学と自分とアイデンティティ

まずはざっくり「自己紹介

名前:嶺岸歩(みねぎし あゆむ)
Twitter:@AyumuMinegishi
出身:横浜市(生まれは宮城県)
高校卒業まで全て日本で英語も当時は全く話せませんでした。
米国テキサス州の大学4年弱留学-仏文
上記期間中カナダのモントリオール短期語学留学、フランスレンヌ半年間交換留学経験あり

過去の職歴

外国人賃貸営業
オンラインマーケティングリサーチ営業
英語講師
クラウドソリューションCS
求人検索エンジンCS/CSマネジャーを経て

現在シンガポールで求人検索エンジン企業で
インドとオーストラリアメンバーと共に企業採用支援中
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まずは自分の出身高校の話を少し。
自分の出身高校は神奈川県ではそれなりに名の知れた進学校で大学進学率もほぼ100%というレベルでした。
在学中は勉強よりも卓球に明け暮れて、そのことばかり考えていました。いざ部活引退後周りが大学受験勉強に身を入れる中で自分だけは、その意義を見出せず、なんとなく周りが大学に行くし、親も行くと思ってたから、なんとなく塾に行って、勉強した「気」でいました。

そんあもやっとした時間を過ごしながらいざ大学受験シーズンを迎えると、案の定どこも受からない。当時は名門法学部を大体受け落ちました。
(ちなみに法学部受験理由は当時「Hero」をドラマで見てかっこいいと思ったからそれだけw)
受験シーズンが終わり、いざ高校卒業後なにをしようとなったときにふとそもそも大学に行く理由や意味が改めてわからないことに気が付きました。
そうなるともう一年浪人しても勉強に身が入らないし、受かる気もしない。万が一受かっても楽しい要素ないなって思った時に、昔から父親に連れて行ってもらった映画の影響で興味を持った米国映画のことを考えました。

「アメリカで英語勉強して、映画作りを学ぼうかな。」

正直今でもこの決断は「逃げ」の決断だったと思ってます。浪人はしたくない、勉強はしたくない。
でも、実際にこの決断をしたあとで待ってたのは米国大学入試や条件で必要だったTOEFLに向けた勉強や合宿でした。
英語は嫌いではなかったけど、得意でもなかった。当時ペーパーテストで500点前後の実力でした。
アメリカの大学選びも映画専攻だからやっぱりカリフォルニアって思ってけど、高校時代の成績が悪すぎてカリフォルニアは無理。なんとか映画も強いテキサスの大学でチャンスが。
当時テキサスってどこ?何って言うレベルでした?(今となってはダルビッシュがレンジャーズで活躍してて有名ですけど、当時は日本で誰も知らないレベルだったんじゃないかな。。。)

2004年の夏に留学エージェント経由で渡米。
渡米後がもっと辛かった。留学直前NOVAで相当回数マンツーマンレッスン受けて「できる」って調子乗ってたけど、実際アメリカ行ったら「How are you doing?」すらも聞けなかったw  NOVAさんごめんなさい、だけど、スクールよりも実際の経験がベター。
渡米後はエージェント経由の日本人の仲間と支え合いながら生活してたけど、多くの日本人は現地日本人コミュニティに入るのに頑張ってて、当時から対人関係が得意ではなかった自分には苦痛でしかなかった。

そこで思い切って、日本人との関係を絶って、外国籍とだけ日々生活することにした。そうしないと英語もできないし、留学の意味もないって思ったから。親に頼み込んで大枚叩いて送ってもらった留学先で思い出は日本人とのパーティーだったら悲しくないか?自分はそう思って必死に現地の他の留学生やアメリカ人について行った。内容がわからない会話でも必死に単語を拾ってあとで勉強し、毎日英語で考えて、日記を書いて、映画DVDは同じのを3回繰り返した(1回目はサブタイトルなし、2回目は英語サブタイトル、3回目は日本語サブタイトル)。こうして日々英語で考える力、英語で生活する時間を増やして行った。

この成果もあって、大学入学する2005年1月までの半年ほどで日常会話はなんとかできるようになった。もちろん入学後はそれで別の課題もありました。大学は映画/テレビ/ラジオ選考で入学。ただし人気学科のため、一定の成績を収めて特定科目履修後に正式に入部という形だった。特定科目も登録するのにハードルが高く、毎タームごとに授業登録できいないことが多かった。
映画とは別の軸で留学初の友人がフランスからの留学生だったため、2005年入学当初からフランス語の授業もアメリカ人と共に受講した。こう聞くとこいつアホか?と思われるし、実際にアホだと思うけど、英語力アップに外国語を英語で学ぶことは最適だった。フランス語文法を英語で学ぶことで英文法との比較や復習もできた。また周りのアメリカ人も英語はできるが、フランス語はさっぱりと言う人も多くて、少しこっちが文法などできると質問されることもあった。それが自信にもつながった。

あっという間に大学初めてのタームが終わり2005年の夏休み。フランスの友人は留学終了で帰国済み。彼らに会うために、イギリス旅行と合わせてフランスへ5週間ほど過ごすことにした。フランス語は好きだったけどはじめのタームは辛かった。講師が適当でサポートが手薄、そのためモチベーションも下がっていた。そんなモチベーションを爆上げしてくれたのがこのフランス旅行だった。大学の友人はロワール川沿いの出身でワイナリーで美味しいワイン紹介、ロワール川カヌーとBBQ、など楽しい生活を紹介してくれた。
またロンドンのホステルであったレンヌの女の子たちは自宅へ招いてくれて夏の音楽祭をレンヌで過ごすことができた。今でも忘れられないのがレンヌから電車で去る時に友人が泣いていたこと。理由は今でも知らないし、聞いたことないけど、なんとなく嬉しかった。

四週間弱のフランス生活でフランス語を学ぶ意欲もアップして、テキサスへ戻り再び履修再開した。

ここで気になるのが、映画の授業。実は映画関係の授業は大学時代1つしか履修してません。それも内容が初級なのにハード、アメリカで映画など学ぶ人たちは幼少期からたくさんメディアやエンタメに触れて自分たちで撮影などしてきた強者たち。そんな彼らと授業を受けて自分が恥ずかしくなった。「映画好きだから、映画専攻」
パッと自分は映画は観る専門でいいのかなと、大学在学途中で専攻をフランス語へ変更。

アメリカン大学では取得単位の内容や必須科目条件などさえクリアすれば容易に在学中でも学部や学科変更が可能です。自分の場合はフランス語以外にもイタリア語やドイツ語、言語学なども興味で履修していて、全て卒業要件に入ったので比較的早めに卒業できました。当時留学生の卒業までの時間は4年半から5年と言われてました。途中で帰国して就活したりと言うこともありますが、語学学校含めると5年ほど滞在する生徒は多いと思買ったと思います。

さて自分の就活はどうだったか?自分は日本一時帰国せず現地でボストンキャリアフォーラムのみ参加で仕事探しをしました。結局ここでも、専攻や勉強とつながるキャリアを見出せなかったんです。実際できるならアメリカで言語学中心で大学院も行きたかったし、出身大学の学科長からもフランス語で大学院入学も勧められてました。ただ当時費用など考えると早く卒業してまずは仕事という気持ちが強く、結局2008年5月末に内定もないまま帰国することにしました。

2008年以降の話はまた別にするとして、大学時代で一番の収穫は自分自身がマルチナショナルの環境の中で生き生きできることがわかったこと。
新しい文化や言語が学びたい、相手の価値観が知りたい。この経過は現在インドとオーストラリアのメンバーとシンガポールからリモートで働いているところでも活かされてます。海外と仕事する、海外で仕事するのにまず大事なことは、自分や日本の価値観が全てではなくあくまでも一部であることを理解すること。どれが正しいではなく、それぞれがそれぞれであっていいということを理解すること。たとえ日本国内で働いたりしても様々がバックグラウンドの日本人がいます。彼ら全員と同じ価値観で仕事や生活できることはまずないでしょう。でも、それを前もって理解して感じていると、実際に経験をした際に、どっと構えて受け止めることができます。

タイトルに「アイデンティティ」と入れましたが、実際に自分ば留学して人生が変わった人です。人生で一番の決断だと言えます。
それがなければならない今のシンガポール生活も香港出身の妻との生活も子供達もなかったし、25か国を超える国を訪れることにもならなかったと思うから。

ダラダラと書いてしまったけど、今から海外で仕事したい人、留学興味ある人、そんな方々に少しでも参考人なればなと思います。

質問などあればTwitterで連絡ください。

https://twitter.com/AyumuMinegishi




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