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孤独の道行、吉田修一『国宝』

吉田修一『国宝』。芸術選奨文部科学大臣賞、中央公論文芸賞をW受賞。先月audibleで『コンビニ人間』を読んで、今月は何を読もうかと選んだのがこの作品だった。先月は初audibleだったこともありとっつきやすそうなものを選んだけれど、今度は朗読で聞く意味がある作品をと思っていたところ行きついたのがこの『国宝』。九州の任侠の親分の息子として生まれながら、紆余曲折あって歌舞伎役者という道を選び、進んでいく喜久雄という人間を主人公とした大河ドラマであり、その周りの芸に生きる者たちとそれを支える者たちの群像劇。時に歌舞伎の舞台を描き作品を引用しながら進むこの作品を、朗読しているのは五代目 尾上菊之助。本物の歌舞伎役者が読み上げるのであれば、歌舞伎の場面の描写もその意味も、造詣のない自分より遥かに深い理解をした上での表現だろうし、ただ自分で文字を読む想像力を超えていってくれるだろうと期待させてくれる。そして尾上菊之助の朗読はその期待を遥かに上回る臨場感でこの作品を堪能させてくれた。声色や語り口だけで誰かわかる演じ分けのうまさはもちろん、歌舞伎の場面の迫力は自分で読む想像力を遥かに超えてくる。この語りがあったからこそ馴染みのない歌舞伎のシーンも心に迫ってきた。また講談調で語られるこの物語は、その文体からして朗読に向いている。文字で読むより朗読の方が合う、非常にいいケースだと感じた。

ここから先はネタバレも含みつつの感想になるので、未読の方は注意されたい。

この作品は大河ドラマであり群像劇と先に書いたが、主人公の喜久雄はもちろん、喜久雄とともに描かれるその周りの人物たちも毀誉褒貶、栄枯盛衰の激しい人生を送っていく。任侠の世界に生まれ、親を殺されたことから歌舞伎の世界へ足を踏み込んでいく喜久雄はもちろん、幼なじみで付き人でもある徳次も、喜久雄の恋人であった春江も、喜久雄の師となる二代目 半二郎も、その息子の俊介も、芸の先人である先輩女方たちも、興行会社の社長ですらも、みな一筋縄ではいかない波乱万丈の人生の中で、お互いの波が絡み、時に共鳴し合い、時に打消し合って、その流れが時代を作り上げていく。その大きな流れだけを見ていてはわからない栄華の裏の個々人の苦しみや闇がしっかりと描かれているのがこの作品に凄みを出している。喜久雄も俊介も何度も心が折れかける。最後まで不屈の心で芸に挑んだ二代目 半二郎も、気丈に気高く振舞った裏に本心を隠していた。この作品に出てくる登場人物たちは誰も単純に成功しない。あと一歩のところで裏切られたり、病に倒れたり、スキャンダルに失墜したり、金策に苦労して望まぬ仕事に臨んだりする。もう少し、あとは手をかけるだけだった成功に、なかなか辿り着かない。それが芸の厳しさであり、ひいては人生の、世間の厳しさなのだろう。だがそれでももがくのが、役者の性根。あらゆる人物を通じて描かれる、そのどんなに苦しくても芸から離れられない、あるいは離れようという発想すらない、そんな役者の姿が凄みを持って迫ってくる。そんな場面に何度も何度も巡り合っていると、物語の終盤、少なくとも作中では最後の舞台に向かう前の喜久雄の台詞が心に重く響く。

「なあ、役者をやめられる役者なんているのかねえ」
 役者が仕事であるならば、いくらでもやめることは可能でございましょう。しかしもし役者がその人の性根のことであるならば、いったいどこに性根を入れ替えられる人間などいるでありましょうか。

仕事を軽く言うわけではないが、仕事は苦しければやめることはできる。だが、役者は仕事でなくその人自身の性根だとしたら…。どんなに苦しくてもやめることはできない。やめるということは、その人自身をやめるということに他ならないからだ。

印象的なのが喜久雄が歌舞伎の世界に入った時に既に絶対的な女形役者としての地位と実力を得ていた小野川万菊の最期。この作品の中でほとんど唯一例外的に登場時から最期まで波乱なく絶対的名優の位置にいた万菊は、齢90を超えて舞台にも立たなくなってから最後、一般的な目線で見れば惨めとも思える最晩年を過ごす。豪奢だった自室マンションでゴミに埋もれて発見された後に行方をくらまし、最後最低価格のドヤ街の安宿で素性も明かさずそこの住民たちと交流しながら質素というよりはうらぶれた日々を送る。普通ならさぞかし不満の多い生活だったろうと思うのだが、ところが万菊はこう語っていたという。

ここにゃ美しいもんがひとつもないだろ。妙に落ち着くんだよ。なんだか、ほっとすんのよ。もういいんだよって、誰かに、やっと言ってもらえたみたいでさ

あの万菊も、ずっと苦しんでいたのだ。当代一の女形としてずっと君臨していた万菊ですら、美しくなければならない、美しくあり続けなければならないという重圧と戦っていたのだ。その強烈な役者の性根から解放されたのは、素性のわからない陽気な爺さんならぬ婆さんとなり、万菊でなくなってからだった。考えようによっては役者としても成功し、人としても幸せに最期を迎えられたのはこの作品の中では万菊だけなのかもしれない。ただ、それでも最期を迎えた時は白粉をを塗り紅も差し眠っていたというのだから、役者の性根とは根深いものだと空恐ろしくなる。

その役者の性根に突き動かされるように芸の道を進む喜久雄は、物語が終盤に差しかかるにつれどんどんたくさんのものをなくしていく。どんどん孤独になっていく。冒頭の親に始まり、師も、後ろ盾も、恋人も、友も、最後は子供まで、ひとつずつ喜久雄の周りからいなくなり、あるいはいるようでいていなくなり、芸の道を進む先へ行くほど孤独は深まっていく。その孤独を、喜久雄は意に介していたのかいないのか...。終盤に向けて、喜久雄という人間の輪郭はどんどんぼやけていく。

『藤娘』の舞台で起きた、喜久雄に魅入られてしまった観客が茫然自失の体で夢遊したように舞台に上がるという事件は孤独の果ての狂気を加速させた。舞台と客を分け隔てていた一線が破られたその時、きっと喜久雄の中で舞台と外界の境界が崩れ、世界が混ざり合い始めたのだろう。それは幻視に違いないが、喜久雄が望む舞台の世界だ。

役者をやめたいのかと問われた喜久雄はこう答える。

いや、その逆だな。やめたくねえんだ。でもよ、それでもいつかは幕が下ろされるだろ。それが怖くて仕方ねえんだよ。だから......いつまでも舞台に立っていてえんだよ。幕を下ろさないでほしいんだ

作中の最後の舞台は『壇浦兜軍記』より三段目『阿古屋』。この歌舞伎に合わせて物語は一気に終幕に向かっていく。帰ってくる友、世間からの『人間国宝』という賛辞、でももういいんだという赦し、それらすべてがこの舞台に向かって収束していく。なくしたものも、世間の評価も、本当はほしかったものも、すべてこの舞台に向かっている。だが行くところまで行ってしまった喜久雄はもう帰ってこようとしない。いや、帰る必要がなくなったのだ。舞台と外の世界は完全に溶け合いひとつになった。『藤娘』で客席から破られたその境界は、今度は喜久雄が舞台を客席へ、そしてその外へと広げていくことで完全になくなった。役者の性根の果て、辿り着いた場所で見る景色は美しいに違いない。だがあと少し、あと少しこの世界にとどまっていれば大団円となるはずだったのに、その世界はなくなってしまった。せめてこの舞台が終わって、楽屋に戻るまで待ってくれさえすれば。そのもどかしさと口惜しさがこの場面描写の圧倒的な美しさに飲まれていき、読んでいるこちらの気持ちまで混沌としてわからなくなる。ここでまた、尾上菊之助の朗読が熱を帯び、それがまた心に刺さってくる。まだ行かないで。もう少し待って。そう叫びたくところに、最後の紹介が終幕だとばかりに熱く語られる。喜久雄は願い通り幕の下りない世界に行ってしまった。だがこの物語の幕は下りる。幸福であるのか哀しみであるのか、喜劇なのか悲劇なのか、それにすら惑う感覚で、ただ圧倒的な凄みと美しさの中で。

この『国宝』が描いているのは人生の栄枯盛衰であり、人間に染み付いた役者の性根の凄まじさ。そしてその凄まじさからの解放であるように思う。たくさんの役者がその性根に突き動かされて生きた。どんなに苦しくとも、その性根に苦しめられようとも。やめようと思ったとしてもやめられぬその性根から解放されたのは、役者でなくなった万菊と、役者になりきってしまった喜久雄だけ。その凄まじい芸の道行を、この作品は描いているのだと思う。

作中にも出てくる近松門左衛門の有名な作品『曽根崎心中』。その主人公であるお初と徳兵衛は、あと1日待つことさえできれば心中なんてしなくて済んだ。この作品のラストシーンも、せめて舞台が終わって楽屋に戻れば、きっと違った未来が待っていたに違いない。だが『曽根崎心中』で思い詰めた若い2人が行ってしまったように、役者の性根に追い立てられた喜久雄もまた、待たずに行くところまで行ってしまった。奇しくも文庫版の解説では「死こそが、歌舞伎の最大の見せ場と言ってもいい」と触れられている。死は歌舞伎においては生の極限の姿なのである、と。ある意味芸と心中したと言ってもいいこのラストシーンは、まさにそうした極限の生を表しているのではないだろうか。最後にそんな感想を象徴しているような『曽根崎心中』の有名な道行文を引用して、この作品の感想の締めとしたい。

この世の名残り、夜も名残り、死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ。

#読書の秋2021


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