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コンビニ人間の"普通"と"普遍"

村田沙耶香『コンビニ人間』。2016年、第155回芥川賞受賞作。芥川賞受賞作だからといって必ず読むわけではないのだけど、この本は受賞当時からずっと気になっていた。けれど他に読む本があったりそもそも読書量自体が以前よりグッと減ってしまっていたり、そんなこんなが重なり今まで未読のままきてしまっていた。この作品を知ってから実に5年に渡る、買ってもいないうちから読もう読もうと心の中で思っているだけのエア積読。

そのエア積読に終止符を打つきっかけになったのは、逆説的に最近の自分の読書量の減少だった。平日は仕事が終わって家に帰ればお酒を飲み、本を開くとすぐに寝落ちてしまって読書が遅々として進まない。休日でも集中して本に向かう時間は短く、とかく読書量が減少してしまっていた。本は読みたいけど時間と気力がない。その状況を少しでも改善できないかと考えて試してみたのが、本の朗読サービスAmazon audibleだった。

朗読で耳で聞いて本を読むというのは心理的には少々抵抗もあり、本当に頭に入ってくるのかなと半信半疑でもあったけれど、何しろ毎日往復で1時間半はある車での通勤時間。今はここで音楽を聴いてはいるけれど、その時間audibleで聞いて本が読めるなら最近の読書量の減少を多少はカバーできるのではないか。そして増えたインプットはまた次のインプットや、もしかしたらアウトプットをも呼び込んでくれるのではないか。そうした期待もあり、まずはaudibleの無料体験に申し込んで一冊無料で試してみることにした。そこで選んだのがこの『コンビニ人間』だ。

理由はいくつかあるけれど、まず図表や写真が多いビジネス書や思想書の類は車を運転しながら聞くのは厳しそうだし、あまり長いものや硬いものだと慣れてないのにいきなり挑戦すると途中で挫折するかもしれない。とりあえずそう長くなく、文体が難しそうでないけど読んでみたいと思っていた小説、という視点で候補を絞っていき、最終的に選んだのがこの『コンビニ人間』だった。

簡潔に結果だけ書くと朗読は意外といいもので、車を運転しながら聞いていてもちゃんと頭に入ってくる。朗読は声の調子で場面の空気を作ってくれるので、これはよくも悪くもだけどシーンの空気が朗読で表現として強く伝わってくる。目で読むのとはまた違った読書の形だけど、普通に楽しみながらこの本一冊、一気に最後まで聞き通すことができた。さて、ここまで前置きが随分長くなってしまったが、以下本を読んだ感想を。

この小説は「普通とは何か」が本当にわからない女性が主人公だ。自分で考えて行動をすると世間との基準がずれてておかしなことになるが、どうしても世間の言う"普通"がわからないから表立っては自分で行動することを放棄し、言われたことだけをこなして過ごしていた。そんな彼女がコンビニでバイトを始める。そこは"普通"とは何かが完全に定義された、彼女にとっては生きやすい環境だった。接客の仕方、商品の並べ方、発注の仕方、その他諸々、コンビニではすべて動作がマニュアル化され、そのマニュアルに従っていれば「普通とは何か」を考える必要がない。「普通とは何か」を考えて行動を放棄することも、行動の結果おかしな目で見られることもない。マニュアルに従って生きていれば普通でいられて、そのマニュアルが完全に整備されたコンビニという世界は、彼女にとって生きやすい理想郷のような場所だった。

小説としては当然コンビニで働くうちに細々とトラブルが起こったり、異分子が入ってきたりして物語としての紆余曲折が入っていくわけだけれど、その辺りは未読の方に実際に小説を読む楽しみを取っておくために詳細は触れない。ここからは自分が感じたこの小説のテーマについて話してみたいと思う。

この『コンビニ人間』を読みながら(実際には聞きながら)感じたのは、この小説は人間社会における"普通"と"普遍"に光を当てたいのだなと感じた。身近にある"普通"、連綿と続く"普遍"。

「普通って何だろう」というのは、多くの人が一度は考えることだと思う。みんな簡単に言うけれど、普通とは何か?この普通が根本的に全く理解できない主人公は、コンビニではマニュアルに従うことで普通を体現するし、休憩時間等で雑談をする時などは自分の周りにいる人で印象がいい人の話し方の真似をし、こういう場合はこういう反応を返しておけば普通と見られるというあらかじめ用意した定石(それはあらかじめ「普通の」妹と相談してまで用意したものもある)を使い、精一杯普通であろうとする。それは普通が全く理解できない、つまり普通でない彼女が普通であるための戦術だ。

翻して見ると、普通であるということはすなわち周りの期待値から外れないということを意味する。相手の期待に反かないことが普通であるわけだ。それはなんと移ろいやすいものであろうか。相手が変われば、場が変われば、その相手や場が期待するものは変わり、当然"普通"の基準もまた変わってくる。冷静に考えれば、そんな移ろいやすい"普通"をあらゆる場に応じて体現していられるという能力は実は物凄く多くの情報処理の果てに生まれたとんでもない異能なのかもしれない。それは人間が社会を円滑に営む上で身につけてきた感覚であり能力であるのだろうけれど、もしその能力が欠落していたとしたらその場からどれだけ多くの情報を読み込めば"普通"が判断できるのだろうか?主人公の混乱はまさにこれであると思う。

もうひとつこの作品のテーマに"普遍"というものがあると感じた。作中のある登場人物は、盛んに縄文時代から人間というものは変わっていないということを述べる。それは普遍的な人間の性質ということだろう。相手や場によって移ろいやすい"普通"と違って、"普遍"は長い時を経ても場が変わっても変わらない。なにしろ縄文時代から変わってないと言うのだから。

だが、本当に何も変わらないものが普遍なのだろうか?この作品はそう問いかけているように思える。何年もコンビニに買い物に来るお客が「本当にここは変わらない」と言うけれど、実際にはその何年の間に並ぶ商品も変われば店員も何人も変わっている。目の前を流れる川はずっと同じ川に見えるけど、実際はさっき見た水はもうずっと下流に行ってしまい、今はさっきとはまた違う水が流れている。そのような描写がこの作品には頻繁に出てくる。同じに見えるものでも、実際は変わっているんだよと。では、変わらないとは、"普遍"とは何だろう?と。

この作品が出した(とりあえずの)答えは、「同じに見えることが大事」だということだと思う。"普通"とは相手が自分達と同じだと思えることだ。"普遍"とは対象がずっと同じだと思えることだ。"普通"に働くのは同族意識による同質性の原理だし、"普遍"に働くのは時間意識に対する同質性の原理だ。どちらも実際に同じであるかどうかより、同じであると思えること、同じであるから理解できると思えることが大事なのだ。それは人間が社会を営む上でお互いを理解するプロセスを減らすための同質性なのかもしれない。

その同質性をどのレベルで意識していくことが人生なのか?人間として?日本人として?もっと小さな地域の人として?あるいは特定の組織の人間として?あるいは特定の関係性のみにおいて?どのレベルに同質性を最適化するかで生き方が変わる。これまでの日本社会の真面目に勉強して社会に出て結婚して子供を持って生きるのが当たり前という"普通"は、今もっと細分化された普通になりつつある。これまで日本社会が作り上げてきた"普通"や"普遍"は今の時代では固定化されすぎて窮屈になってきている。これからは漠然と"普通"でいようとすることに努力するよりも、自分が"普通"でいられる場所を探すべきなのではないだろうか。そうこの作品は問いかけているように思えた。主人公も、最後はそのような生き方を選択するのだから。

#読書の秋2021

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