50.匂いが持つ記憶と、立派についての話
匂いの記憶ってありますよね?
わたしは実は、人の匂いを嗅ぐのが好きなんですよねー。その人から好きな匂いがすると、時間が許すならいつまででも嗅いでいられます。変態です。どちらかと言えばド変態です。
特に嗅ぎたい場所は、うなじです。匂いを嗅ぐという行為に対して、あんなに最適な場所はありません。なので、今までの彼氏は全員嗅がせてもらっていました。そして「お前いい加減にしろ!」ってしょっちゅう怒られてました。別にいいじゃん、減るもんじゃないんだし。
さすがにわたしも、よほど関係が親密にならない限り、うなじには手を出しません。それくらいの常識はちゃんと持ち合わせていますのでご安心を。
そしてこの好きな匂いというのは、人に対してもそうですが、時間帯や空気、天気に対してもそうです。
毎年思うのが、夏の終わりかけのまだ暑い日の夕暮れ。天気は晴れ。そういう時って独特の空気感というか、匂いがするんですよね。
それで必ず思い出すのが、小学校の頃、おばあちゃんと一緒に花火大会に向かう途中のことです。おばあちゃんと並んで歩いたこと、シートの上で食べるお弁当箱を持っていたこと、2人の影が伸びていたこと。かなり昔の思い出なのに、ものすごくリアルに感じます。
わたしが生まれた日は、記録にのこる嵐の日でした。雨も風も強く、ひどい天気の中、おばあちゃんとおじいちゃんがずぶ濡れになりながら、病院まで駆けつけてくれたそうです。
雛祭りの日には、おじいちゃんが雛人形を担いで、持ってきてくれました。
わたしがまだ物心つく前から、たくさんの優しさをもらいながら、わたしは育ってきました。そんなおばあちゃん、おじいちゃん、母、破天荒な父へ、今のわたしは恩返しできているのかと思うと、ちょっと泣きそうになります。
立派になるってどういうことなのか。
社長になれば立派なのか、お金持ちになれば立派なのか、有名人になれば立派なのか、社会に貢献できれば立派なのか。
どういう生き方をして、何を残してきたかなんて、その人と深く深く関わらないと分からない。そして「立派」という言葉は、あくまで他人からの評価でしかないのか。自分で自分のことを立派と思ってはいけないのでしょうか。
世間では立派という言葉が、いとも簡単に使われていて、そしてそれが当然のように個人に重くのしかかります。
その重さは本人にしか分からず、いつの間にか自分一人では持ち上げられない重さになっていて、それを重く感じている人ほど、責任という別の重さも一緒に背負っている人が多い。
重量挙げしているところに、小錦が乗っかるようなものですね。小錦っていう例えが世代を感じるけど。
立派じゃなきゃいけないというのは、もはや生まれた瞬間から始まる「呪い」だと思います。
時間は有限。小錦に邪魔されている場合じゃないんです。
なんか小錦が悪者みたいな言い方になってますね。すみません違います。
ちなみに現在の体重は153キロらしいです。みんな大好きWikipediaより。
そういえばおばあちゃんが言ってました。
「まだ赤ちゃんの頃、あゆみをおんぶするとねー、うなじをずっとチューチュー吸ってたよ」
なるほどね。うなじ好きは生まれつきだったのか。
これも一種の呪いかも。
どうしてもうなじに手を伸ばしてしまう、ド変態な呪い。