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誰が為の二日酔い

「あいたたた……」
痛む頭を抑えながら、私は身を起こした。
すでに昼の12時。でもまだまだ眠いし、昨日の深酒がしっかりと体に残っている。
おもむろに立ち上がると、視界がぐあんぐあんとした。

右奥の部屋からは、シャワーの音がする。
「ああ、なんて面白いことになってしまったんだろう」

ーーーーー

7月某日。都内某所。
私は一世一代の勝負の臨んでいた。
令和5年度司法試験予備試験、短答式試験。

この1年半、この日のためにすべてを捧げてきた。正確にいえば、捧げないと私がどうにかなりそうだった。

MARCHに含まれる大学を出て、社会人になり、化粧品の販売員としてあくせく働いていた。
本当は商社やコンサルに就職したかったけれど、就活でしっかりと足切りにあい、なんとか就職できたのがこの美容系の会社。拾ってくれた恩があるから、毎日緊張感を持ってカウンターに立ち、積極的に営業していた。
しかし、周囲の美女たちのようなコミュニケーションがなかなかとれない。私生活でもおしゃれになろうと努力したけれど、大学まで腐女子だった私が駆け上がるには、急すぎる崖。
結果、メンタルの調子を崩して会社を休みがちになり、逃げるように休職した。

この先どうしよう。四国の田舎に戻ることも考えた。
でも、大学時代から住んでいる激安ボロアパートの大家さん(73)が、何かと気にかけてくれたから、尻尾を巻いて帰りたくはなかった。
大家さん宅でのほほんとお茶を飲んでいたとき、
「若いときはいろいろあるけれど、後悔する記憶があるだけマシかもしれないねえ。ボケ老人になったらその後悔すらできないのよ」
と言われた。きっと、痴呆症を患った末に他界した旦那さんのことを思い出しているのだろう。

ある日、大家さんが見ていた新聞で「司法試験予備試験」という文字を見た。
予備試験?追試みたいなもの?
なんだかとても気になって、部屋に帰ってからネットで調べ、驚いた。
「試験に合格するだけで、弁護士や検察官になれる道がある」
もちろんすぐに法曹になれるわけではないが、私の脳裏には「一発逆転」という文字が浮かんだ。

もう嫌だった。自分なりに努力しても報われない人生。「鳴かず飛ばず」という言葉が似合いすぎる人生。女子トイレで同僚に「あの人、よくこの仕事を続けていられるわよね。全然向いていないのに」と、陰口を叩かれる人生。
ここで逆転しないで、いつ逆転するんだろう。
私の心に青い炎が灯った。

そのあとすぐに退職手続きをし、なけなしの貯金をはたいて資格スクールに申し込み、一心不乱に勉強した。
元々友達は少なかったけれど、たまには「飲みに行こうよ」という誘惑もある。元々お酒は好きで、大学時代は酒豪で通っていたけれど、心を鬼にして断り続けた。
「短答式試験が終わったら、めいっぱい飲もう。その日までは禁酒だ!」
そう誓いを立てた。

あっという間に時が過ぎ、短答式試験当日。
試験会場のW大学に足を踏み入れ、自分の受験番号を探して、用意された席につく。
周囲には、私と同じように緊張感をただよわせている受験者たち。
短答式試験は、この中の約20%が受かる。しかしそのあとの論文式試験と口述試験を経て最終合格できるのは、4%にも満たない。

そして9:45に戦いの火蓋が切って落とされ、その後は休憩を取りながらひたすら目の前の問題に取り組み、17:30にようやく解放された。

「お、終わった〜〜〜!!!」
なんだろう、このものすごい開放感!
こんなの感じたことないかも。それだけがんばってきたということだから、私は一人でとても嬉しくなった。

前述のとおり、今日は飲むと決めている。
飲むったら飲む。しこたま飲む。誰が何といおうが飲む。
もちろん短答式試験をクリアしていたとしても、このあとさらに難関が待っているけれど、今日だけはその現実を忘れたかった。

まずは、W大学近くのいかにも学生が通いそうな安い居酒屋に入り、早めの夕飯を食べながら、ビールをどんどこ胃に流し込む。
「あーーーーーーーー、最高」
妙齢の女性が一人で飲みながらこんな風につぶやいても、今日は誰も咎めないだろう。
不思議とビールだけではそこまで酔った気がしない。本場・ドイツではビールは水のような扱いだと聞くので、今日だけ私もビールを水だと思うことにする。

お腹がいっぱいになったので、そそくさと退店して次のお店を探した。まだ時間は20時台。バーに行くには早い。そこで2時間ほど一人カラオケをすることにした。

ほよろいで歌う、自分が気持ちよくなるためだけの楽曲。端的にいって最高だ。
会社の仲間と行くカラオケだと、こうはいかない。上司が若い頃に流行った歌や、いかにも「女性らしいです!」という歌を歌わないと、周囲からさらに浮いてしまう。歌なんて二の次だった。
でも今日は、私は私のために歌える。私のためだけの時間、歌、そしてお酒!
ここでは安い日本酒をしこたま飲んだ。今日だけは日本酒も水だと思うことにした。ほら、日本酒って水みたいに透き通っているし。

そんな調子で2時間ほど熱唱してからカラオケ店を後にし、次のお店へ。次は大人っぽい雰囲気のバーに行こうと思い、カラオケ中にお店の目星をつけていた。

駅とは逆方向に歩き、大通りから少し細い道に入って5分ほど。小さなビルの地下一階にあるバーに、いざ入店。
どきどきしながら扉を開けると、思ったより広い空間が目に飛び込んできた。

入って右手にはビリヤード台が並び、何組かがお酒を飲みながら遊びに興じている。スーツを着た男性同士がわいわい盛り上がる横で、大人な雰囲気の男女が目の前のボールではなくお互いの顔ばかりを見ていた。

そして左手にはバーカウンター。10席ほどあり、数人が静かにグラスを傾けている。
「いらっしゃいませ。バーのご利用ですか」
と入り口で声をかけられたので、「はい」と答えて席に案内してもらう。

着席すると、目の前にいたバーテンダーが会釈してくれた。
うわ、大人な雰囲気!何を飲もう。
他のお客さんは全員男性の一人客で、ウイスキーやカクテルを飲んでいた。
「何か飲みたいものは?」
とバーデンターに聞かれたので、メニューを見ながらも、
「今日とてもいいことがあったので、強いお酒が飲みたいです」
と答えた。するとバーテンダーは声を上げて笑いながら、
「だったらやっぱりウイスキーのロックですかね」
といって、手頃な価格帯のスコッチウイスキーを出してくれた。変化を楽しむための水とスポイトもつけてくれている。
さっそく一口飲んで、思わず言ってしまった。
「最高!」
ウイスキー独特のもわ〜っとした味わいが広がる。スモーキーな香りが懐かしかった。そして定番だけれど家では絶対に作らない丸氷。こうした“よいお酒”は、もう何年も飲んでいない。

そのまま私はぐいぐいと飲み続けた。
「お姉さん、お酒好きですね」
といいながら、バーテンダーがつまみを出してくれた。私はお酒によって口が緩くなっていたので、
「今日、司法試験の予備試験を受けていたんです。それが終わったのが嬉しくて」
と言った。すると、バーテンダーが意外そうに、
「おや、こちらのお兄さんと一緒ですね」
と、私の右側に座っていた男性のほうを見ながら言った。
「……そうですね」
一席空けた隣にいる、黒縁のメガネをかけた黒髪の男性がモゾモゾと答えた。一見して、女性慣れしていなさそうな雰囲気。そもそもバーがまったく似合わない。私も人のことは言えないけれど。
私は声をかけてみた。
「お兄さんも予備試験を?」
「はい」
「どうでした?」
「たぶん、ぼちぼちできたかなと……」
「それはよかったですね」
そこで会話が終わった。私は酔っていたので普段より饒舌だったけれど、それでも会話が続かない。なんだこのシャイな生き物。
だから逆に興味を持った。
「なぜ予備試験を受けたんですか?」
「まぁ、いろいろあって......」
「お仕事は?」
「まぁ、いろいろあって......」
「お住まいは?」
「まぁ、いろいろあって......」
いや住まいはいろいろないやろ、なんて下手な関西弁で内心ツッコミながら、彼との何ともいえない会話を続けた。
煮え切らない。でも何か気になる。
そうこうする間にもお酒は進み、私はだんだんと強引になっていった。
「はい、じゃこれ一緒に飲もう!」
と、彼に一杯おごるほど。元々酒豪だったけれど、これではただの酒乱である。

そのとき、彼が言った。
「奥のピアノ、少し弾いてもいいですか?」
言われて初めて、店内の奥まったところにアップライトピアノがあるのを発見した。
「しばらく調律していないけれど、それでもよければ」
バーテンダーから許可を得た彼は、フラフラとピアノに吸い寄せられていった。おそらく相当酔っている。
そうしておもむろに、ピアノを弾き出した。
「え、めっちゃうまい」
ポロポロとこぼれ出る音たちが、空間に沁み渡っていく。なんだっけ、この曲。そうだ、坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』だ。

なぜこの夏のまっただ中にクリスマスの曲?とんちんかんだ。でも、試験後の疲れた心が癒やされる感覚があった。

彼が演奏が終えると、周囲からパチパチと拍手が起こり、彼は照れくさそうな顔をしながら、またフラフラと席に戻ってきた。
バーテンダーが、
「とてもお上手ですね。驚きました」
というと、彼は、
「ありがとうございます」
とさらに照れた。私も言った。
「めちゃくちゃうまかった!でもなんでクリスマスの曲を?」
すると彼は、今日初めての笑顔を浮かべながら、ゆっくりと私の目を見て言った。
「だって、今日は戦い終えた日だから」
そうだった。彼も私も今日は戦場にいたんだった。そのときは知り合っていなかったし、おそらく同じ教室にもいなかったけれど、でもそのときは一緒に同じ方向を見て戦っていたのだ。
「……そ、そうだね」
私はなんとか声を絞り出した。そうでもしないと、たった今生まれたばかりの感情に飲み込まれそうだった。
たまたま同じ試験を受けていて、ちょっとピアノがうまかったからって、それだけでこの人が気になるなんて、ありえない。だってもういい歳だよ?高校生じゃないんだから。

そこからの記憶はひどく曖昧だ。そのときはすでに終電がなくなっていた時間で、私はそのまま飲み続けて、少しだけ彼に寄りかかったと思う。お店が26時で閉店になって、そのあとタクシーを拾って帰って……。

次に気づいたときには、もうお昼だった。私の部屋の布団。彼が隣でぐーすか寝ていた。服は着ていた。
「……え、どういうこと?」
「ん……おはようございます」
どうしてこうなったのか思い出せない私が思わず声を上げたら、彼も目を覚ました。メガネをかけていない彼は、普通にかっこよかった。なんだこれ、ずるいじゃないか。
「なんで私の家にいるの……?」
「え……なんか心配で……」
そう言いながら、急にオドオドし出す彼。そして起き上がって、
「ていうか、僕お風呂も入らないで、お布団に入ってすみません!」
と謝ってきた。いや、そこ謝るところじゃないし。
「たぶん迷惑かけたのは私だよね。ごめん」
「いえ。でも楽しかったです」
「私も。あんまり覚えてないけど。あ、お風呂入っていいよ。そこのドアの奥」
「え、いいんですか……?」
お風呂に入りたかったのか、居心地が悪くなったのかわからないけれど、彼はもぞもぞと立ち上がって、奥の部屋に消えていった。

私はガンガンする頭を抑えながら、なんだか面白いことになってしまったなあ、と思った。
短答式試験を終えて、しこたまお酒を飲んで、なぜだか彼に付き添われて帰ってきた一日。すごく楽しかった。激しい二日酔いを感じながらも、なぜだかニヤニヤしてしまう。
私の人生、まだまだ終わっていなかったんだ。

彼がどんな人なのか、昨日の記憶がほとんど飛んでいるのでよくわからない。でもいい人そうだから、きっともう一度教えてくれるはずだ。
たくさん話そう。試験のことも自分たちのことも。私たちの関係はまだまだ始まったばかりだ。

Requested by Pona
「二日酔い・徹夜の創作」

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