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能「柏崎」観世能楽堂 鑑賞レポ

観世能楽堂で能「柏崎」を見てきました。シテは人間国宝の大槻文藏さん。

今回もう亀井弘忠さんの大鼓が本当に本当に本当に良くて…まじで推せる…(映画「犬王」の大鼓もご担当されてます)。6月にお父さんの人間国宝亀井忠雄さんが亡くなられたので今回代役として勤められたのですが、「柏崎」は父を亡くした子の悲しみも描かれる演目なのでそれも相まって、声も大鼓も響き方が凄くて、能楽堂を飛び出してあの世にも届くようなあまりにも研ぎ澄まされた美しい響きだったのでもう惚れ惚れとしてしまいました。

柏崎は『物狂い』というジャンルの演目です。土地を治める大名の夫が急死、あまりの悲しみに家を継ぐことを放棄して修行の旅に出た子、1人残され未来に希望を見失い病んでしまった「北の方(シテ)」。わが子を追って旅に出、長野県の善光寺にて狂った彼女が亡き夫の服を着て追懐の舞を舞う&子供と再会するという話。

世阿弥の言う『物狂い』には、憑き物の物狂、遊狂の物狂、思い故の物狂の3つに分類できるそうで、「柏崎」は思い故の物狂いになります。
別離を原因とする思いによって狂いを導き出すという構造、これって誰しもが一度は経験するであろう普遍的なものだと思うのですが、鑑賞しているみんながそれぞれに失った誰かのことを思い浮かべながら、北の方の一挙一動を息をのんで見守るという空気が生まれていて、すごく神秘的な時間でした。
狂女といっても、暴れたり奇声を発したりするわけではなく、むしろ外面的にあらわれるものではなく、内面に深くあらわれる狂いを表現するという境地なので、醸し出されるオーラで狂いを表現するみたいな匠の域で、芸の極みというものを見せつけられました。これはもうハンター×ハンターです(え)。むちゃくちゃ難しいことしてるなって思ったし、大槻文藏さんは呼吸、間、動き、声においてさすがの使い手だったし、こういうことをやりたがる世阿弥のそういうところ好き♡ってなりました(語彙力0)「柏崎」は狂女物の能の中でも難易度の高い演目でめったに上演されないということを知って納得。

あとすごくおもしろかったのが、北の方が夫の形見の服を着て舞うシーン。これ男性→女を演じる→男装という複雑な重なりが見えるのですが、「移り舞」というそうで、亡き夫が北の方に乗り移って2人が1つに交わるという性的な見方もできる仕組みになっています。
別の人物になるということではなく、演者が役と更に魂とも地続きに重なりあっていくという構図がもはや儀式のようだなと。見ていてすごく不思議な心地がしました。
演じるとは?なぜ人は演じるのか?にも繋がってきそうな視点で、世阿弥の「風姿花伝」ちゃんと読もうと思いました。

ちなみに善光寺は多くのお寺が女人禁制だった頃から、女性もどんな人でも成仏できるようにと参詣を受け入れていたお寺だそうで、そんな場所が舞台になっているのもとても興味深いなと思いました。
これが他のお寺だったら北の方は「狂った女」以前に女であることから出入りを拒否され孤独を一層深めることになり、鑑賞者である私はかわいそうな人だなと客観的な視点にしか立てなかったと思います。
善光寺であるからこそ「なぜ狂ったのか」という視点を持つことができ、別離による狂いは「自分にも起こりうること」に繋がれたからこそ大きく感情を揺さぶられる体験に繋がったんだろうなと思いました。

ただ、このあと子は出家をやめないだろうし、北の方は変わらず1人ぼっちでどうなってしまうんだろうと。
先日宇多田ヒカル様が「残された者」の視点で「人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない。自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化し続ける。」とツイートされていましたが、仏教でいう「己身の弥陀 唯心の浄土」。全ては自分自身の心の中にあるという考え方で北の方も救われてほしいなと思いました。

そんなわけで今日の大鼓、亀井弘忠さんは北の方と完全にリンクしていたように思います。澱みと揺らぎのない表現がまさに「狂」の域でした。芸の神髄に迫れたような尊い時間でした。

講話「己身の弥陀 唯心の浄土」
村上  湛

一調「野守」
謡 観世銕之丞
太鼓 三島元太郎(人間国宝)

能「柏崎 大返 思出之舞」 
花若の母/狂女 大槻 文藏(人間国宝)
花若 安藤継之助
小太郎 福王茂十郎
善光寺住僧 福王 和幸
地頭 梅若 桜雪(人間国宝)
笛 松田 弘之
小鼓 飯田 清一
大鼓 亀井 広忠


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