見出し画像

NHKスペシャル「関東大震災」

1923年9月1日 11時58分。
激震が日本の首都東京都を襲った。
関東大震災である。

死者:105,385人
家屋全潰:109,713

マグニチュード は7.9。震度の方はというと7であったろうと推定されている(当時の震度計は震度6まで)。揺れは10分以上続いた。10分! 阪神・淡路大震災の時は1分弱だったと聞いている。それでも、20分くらいに感じた。10分とは永遠にさえ思えるような長さではないか。

時代は大正12年。テレビはおろか、ラジオもない。そういう時代であるにも関わらず、数人のカメラマン達が決死の覚悟で震災直後の各所の様子を撮影した。「決死の覚悟」というのは、その後の惨劇を思えば決して誇張ではない。関東大震災による延焼範囲を表したサイトがこちらである。火に焼かれた範囲の広さに驚愕する。

映像に納めたというだけでなく、そのフィルムが残ったということもまた奇跡とも言える。現在、フィルムは「国立映画アーカイブ」に保管されている。「国立映画アーカイブ」というものがあるということも初めて知った。

関東大震災を納めたフィルムは20本。当時の撮影はもちろんモノクロフィルムである。100年前であるから精度も低く、のみならず劣化も少なからずあるだろう。NHKがそれを8Kの高精細化、更にカラー化した。これだけでも一級の資料である。元の映像もこちらで観ることができる。

だがしかし、このフィルムには、歴史を語る資料として致命的な欠陥があった。場所と時間が特定されていないのである。今回、大学の協力も得て、その時間と場所も特定したという。震災直後、正午過ぎ頃の人々が色鮮やかに再現されている。100年前が甦ったかのようだ。

加えて、関東大震災の2ヶ月前。飛行船で東京上空を巡っている。しかも、その時の上空からの映像も残っているのである。年を取ってくると、あらゆる形で記録を残すことの重要性を強く感じる。この時代にこれだけのものが残されていたとは、本当に驚いた。これからの時代はSNSがその役割を担うのかもしれない。


高精細カラー化された映像に写る人々は、震災直後であるにも関わらず意外にも穏やかだ。悲壮感はあまり感じられず、のみならず笑顔さえもみられる。死者は10万人を超えるが、家屋の下敷きで亡くなった人は約1万人。残りの9万人の方々はいったいどうしたというのか。火災で亡くなったのである。映像にも、画像奥の方で煙が上がっているのが見える。だが、遠い。もし、延焼してくるようであればその時に逃げればいいと、そう考える人が多かったようである。しかし、結果的には9万人もの人々が火災で命を落とした。何故か。

一つは飛び火である。
「日本の家屋は木と紙でできている。燃やしてしまえばいい。」といって焼夷弾をばらまかれたのは第二次世界大戦の空襲である。関東大震災では地震の揺れで多くの屋根瓦が落ちたか、落ちないまでも大きくずれた。屋根瓦の下の木材が剥き出しになる。ここに火の粉が降り注げば燃えるのは必至である。

おりから、風の強い日でもあった。台風の影響だ。火の粉は大きなものまでが遠くまで飛んだだろう。

そしてそれらが同時多発的に発生した。震災直後、人々は一方向の火災を遠くに見ていたが、四方八方から火の手が迫るのである。

さらに、地震の影響で水道管が破損し消化活動がままならない。皇居堀の側、あるいは不忍池の近くであれば、堀や池から水を汲み上げることもできた。だが、そういうものがなければ水は出ない。これは、阪神・淡路大震災でも同じだった。消防活動用の水が確保できなかったのだ。

被害を大きくした要因のもう一つが、皮肉にも人々が持ち出した多くの家財道具である。荷物を山積みにした大八車や布団行李を担ぐ人達が映像にも写っている。外国人などは「日本人はこんなときに何故布団を持ち出すのか」と驚いたという。その荷物が避難する人々の歩く足を遅くした。それだけではない。荷物の上に降りかかった火の粉はたちまちにして炎となる。家財道具が火種になった。

多くの人は川を目指した。隅田川である。川の向こうにさえ行けば、炎が川を渡ってくることはあるまい。だが・・・。既に川向こうでも火事は広がっていた。橋を渡ろうとして人々は驚愕する。向う岸からも大勢の人が押し寄せてきているからだ。橋の上では身動きもできなくなっていた。群衆事故で亡くなった人も多かった。しかし、群衆事故から免れた人々とて助からなかった。橋の上に降りかかった火の粉は橋もろとも焼き付くす。隅田川にかかった6つの橋、千住大橋、吾妻橋、厩橋、両国橋、永代橋、相生橋が焼け落ちる。炎が過ぎ去った後にはおびただしい数の死体が重なりあっていた。橋の上下を問わず。それを兄と一緒に眺めていたのが黒澤明である。

火災の被害で最も被害の大きかったのが陸軍被服廠跡地である。前年に赤羽に移転し大きな広場となっていた。地元では「何かあったら被服廠跡地へ」が合言葉になっていたようだ。4万人の人達がここへ逃げ込んだ。そこへ火災旋風が襲いかかる。荷物だけでなく人さえも火の竜巻に巻き上げられた。実に3万8千人の人達が犠牲になったのである。「被服廠跡地」というのは、ほぼ広場だ。火災の後には焼けた死体が散乱する。そこも撮影されたようだ。カメラマンが警官にたずねる。撮影してもいいかと。警官は許可するが、ある一区画を指差してそこだけはやめてくれという。何故と問うに警官はこう答えた。「わたしの家族なんだ」。


ドキュメンタリーの最後に芥川龍之介のことに触れていた。

大正十二年九月一日の大震に際して

芥川龍之介が同年九月に書いたものだ。そして、この文を引用した。

『向う三軒両隣を問はず、親しさうに話し合つたり、煙草や梨をすすめ合つたり、互に子供の守りをしたりする景色は、渡辺町、田端、神明町、――殆ど至る処に見受けられたものである。〈中略〉 しかし大勢の人人の中にいつにない親しさの湧いてゐるのは兎に角美しい景色だつた。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる。』

厳しい現実にあって心和む瞬間だったかもしれない。ドキュメンタリーは最後にせめてもの慰めと思ったか。だが、私には芥川龍之介のこの『大正十二年九月一日の大震に際して』には別に思うところがある。それはまた、時を改めて書いてみよう。


ドキュメンタリーは結局のところ朝鮮人の虐殺などについてはほとんど触れなかった。クローズアップ現代では森達也監督の『福田村事件』を取り上げていたので期待したのだが。

映像に虐殺は含まれているのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?