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【読書】安田 敏朗 大槻文彦『言海』:辞書と日本の近代

普通語の辞書ということ

『言海』は普通語の辞書である。

国語辞典が普通語の辞書であるということは現代では当たり前のことかもしれないが、言海が編纂された当時では必ずしもそうではなかった。辞書辞典と言えば、専門用語か難語の解説というものだった。手とか、ご飯とか、歩くとか、普段使うような言葉をわざわざ解説するということはなかったわけである。そこに登場したのが、普通語の辞書『言海』である。

日常において普通に使用する言葉の辞書。

それは至極当然のように聞こえるが、一方で、普通の言葉を強制的に決めるという効果も持つ。普通の言葉でなければ言葉にあらず。更に言えば、方言擗語を撲滅せよという考え方にも繋がりかねない。

日本語を強制する暴力

例えば、大槻文彦の演説に次のようなものがある。

新たに敵から取った台湾などでは土民の言葉を変へるのが専一である、殊に某小児に向つて言葉を変へさせねばならぬ、文章言葉を教へて文章が書けるだけでは話が通ぜぬから話言葉を教えねばならぬが、其規則が無い、関東の教師は関東の言葉で教へ、大坂から行った教師は大坂の言葉で教えるということでは台湾の小児は迷惑である。それからして日本が盛んになれば朝鮮なり支那なり呂宋安南なりドコへでも盛んに出て貿易をせねばならぬからそこらの国々まで日本言葉の通用が出来るようにせねばならぬ、さうすれば戦争貿易外交の上に非常な利益である、けれども今日本言葉を学ばせようと思つても話言葉の文法が更に立つて居らぬ、随分不都合な話である。

本文より

1902年9月、埼玉私立教育会第二十回総会において大槻文彦が語った。

教師の話し言葉がまちまちであったら迷惑であるというのはもっともな面もあるとしながらも、著者はこういう。

問題は、かれらがどういう言葉を話しているのかまったくお構いなしに、日本の話言葉を話させることを「戦争貿易外交の上に非常な利益である」から当然とみなしている点にある。帝国主義的暴力を気付かずにふるっていたといってもよいだろう。もちろん、当時はそういう時代であった。だからといって大槻がこうした発言をしたことを忘れてよいわけではない。

本文より

全く同意である。

歴史を振り返るとき、こういう影の部分はあまり語られないように思う。明治開国以来、どうにもこの国は周辺のアジア諸国を見下してきたのではないかと思えてならない。そしてそれがあの大戦につながってはいないかと。

改めて言うが、私は大槻文彦氏が編んだ辞書『言海』が好きだ。一人で編んだということに尊敬もしている。だからこそ、上記のような言葉に触れるのは辛い。私が後世に生きるからこそ言えるのであって、同時代に生きれば私も大槻文彦と同じに考えたかもしれない。これは私自身への警告でもある。

ただ。

あの時代のあの風は、いつ吹いてもおかしくはない。今後二度と吹くことはないと、誰が言えよう。

であるからこそ、このような歴史をきちんと振り返らずにいられない。

漢字の読み方

以前、ウェブスターの辞書編纂に携わっている方の著書を読んだことがある。原文は英語だろうが、もちろん私は日本語翻訳で拝読した。もともと英語は話し言葉であって、書き言葉はラテン語を用いたのだそうだ。なんとなれば、英語のスペルがまちまちだったためである。「right」などに至っては、実に77ものスペルが確認されたそうな。その話を読んだとき、他人事のように大変だなぁ、などと思ったりしたものだが、日本語にしたって漢字の読み方にいろいろにあった。いや、今もある。

例えば「言語」。「言語」と書くと大多数のひとが「げんご」と読むのではあるまいか。しかし、大槻文彦が言海を編んだころは必ずしもそうでなかった。「げんご」という読みがあることは認識されていたようだが、主な読みは「げんぎょ」だったそうだ。その他に「ごんご」もあった。「げんぎょ」は今では聞かないが、「ごんご」は残っている。「言語道断」だ。

複数の読みが未だに残っている日本語の方が大変かもしれない。「言語」は「げんご」と読んで、「言語道断」は「ごんごどうだん」と読む、その理由を知る日本人などいるだろうか。少なくとも私は知らない。理由もなく二つの読みがあるという現状は、日本語を学ぼうとする外国人にとっては迷惑なものでしかないかもしれない。

終りに

言海、大槻文彦、周囲の人々、そして明治という時代。
実にいろいろと知れた。

五十音順とイロハ順のこと。
「デス」「デセウ」が下劣な言葉と思われていたこと。

次の文章を読んでみたいんだが、さて、どうやったら読めようか。

『暮らしの手帖』1972.11 161頁
花森安治 国語の辞書をテストする

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