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『ペンキ塗りのアイボリー』④ 水樹 香恵

5、地下アトリエの墓守犬

ーー少年にとって"ルドー"はいわば隠れ蓑。

人の懐に入り込む巧みな話術は天性のものだった。
年齢不相応に大人びたそれは、周囲の人間に大層不気味がられていたものだ。
誰もが怪訝な顔をして彼を見下していた。
その影響が強いのだろうか。幼少の頃から大人の顔ばかり見ていた少年は、表情や態度で示せる感情表現について学んだ。初めは、ただ皆に笑って欲しいという、それだけの淡い願いだった。どうすれば喜ぶのか、研究を続け独自に技術を習得した。

果たして大人は反応を見せた。

少年が笑えば喜び、少年が泣けば狼狽え、少年が怒れば下らないと言って目じりを吊り上げた。それはさながら、ヒトの言動を模倣する機械仕掛けの玩具の様にも見えたのだ。
やがて、彼らを自分の思い通りに操れる事に気付き優越感を抱いた少年の"仮面のお遊び"は、ストッパーを担う者が身近に居なかった事も相まって、更に良くない方向へとヒートアップしていった。この世を掌握したかの様に錯覚し、幼い身体では有り余る程の快感が脳を支配していた。然しそれら全てが、子ども心を見透かされた上の演技であったと気付いた時、少年は大人を軽蔑した。
それから、真実と嘘を織り交ぜ自らを騙る癖がついた。
そして本来の自分さえ忘れてしまった。

何も分からなくなってしまった。

ペンキで上書きされた白壁のように、何も。

「……ねぇってば!」
アイリスが耳元で騒ぐ。
「あ……、わ、……びっくりした」
「どう見ても驚いてない下手なリアクションやめてくれる? アホらし」
「……ごめん」
「……何ぃ? 素直に謝んないでよ。わたしが悪者みたくなるじゃん」
「ごめん」
バーガンディはつい今しがた目を覚ましたかの様に顔を顰め、眉間に力を込めながら数度瞬きを繰り返した。
「夢見てたんでしょ、すっごいカオしてる」
「夢…………。あぁ、そっか。アイリス来てたんだ。おはよう」
「はぁぁ? ホントに寝ぼけてる?! ……信じらんない! わたしは昨日からずっとここに居ますけど……!!」
顔を真っ赤にして叫ぶアイリスは心の底から激怒していた。
「冷水でも浴びてきたらぁ? 頭からバシャっとね! じゃなきゃ食べ物だって分けてやんないんだから!」
鋭い怒鳴り声が空間にわんわんと鳴り響く。常に冷えた空気を纏う地下がほんの一瞬熱を持って唸った。この数年温度を感じる事が無かったバーガンディの肌に、チリチリと静電気の様な軽い痛みが走る。
「困ったな……。実は3日前くらいからお湯が出ないんだ。これじゃご飯が食べられないね」
「あぁ、やだ……もうどっからツッコんで良いか分かんない……」
アイリスは口をあんぐりと開け肩を震わせた。
「わたしは別に、"身体を洗って来なさい"って言ったんじゃないの。"頭を冷やして目を覚ませ"って言ってんの。伝わる? お湯の出る出ないは一切関係無いの。ねぇ、分かる?」
「分かるよ、分かってる。ありがとう」
困った様に眉根を寄せて笑う少年は普段からこの調子で、雲や煙に似て掴みきれない言動を繰り返していた。
幼少期から傍に居たアイリスですら予測が付かないそれは、時折酷く虚しい言葉を吐き捨てるのだ。
「……ね、アイリス。餓死って苦しいと思う?」
「やめてよ、あんたが言うと冗談に聞こえないから。っていうか、充分生きていけるだけの食料は置いてあるでしょ。誰が補充してると思ってんの」
「……うん。……あぁ……。冗談だよ?」と言って首を傾げるバーガンディは、さも不思議そうな表情で微笑する。
からかいたいだけなのか、憂さ晴らしがしたいだけなのか。初めは理解出来ず一人泣いた事もあったが、真意の見えない少年の言動に振り回されていくうちに自然と慣れてしまった。考えるだけ無駄なのだ。
少年に対して自分の時間を費やすのが酷く億劫に感じた時、アイリスは彼を"他人の寿命に貪りつくバケモノ"だと認識する事にした。根の優しい彼女は一抹の心苦しさを覚えたが、数年悩まされていた睡眠の質が劇的に改善されてからは不憫に思う事も無くなった。
人の感情を弄ぶからこうなるのだ、ざまあみろ、と心の中で告げてみる。然しそれでも不変的であり続けるのが、流石グランリュインズの血筋と言ったところだろうか。天は二物を与えずという言葉をここまで体現した一族は他に在りはしないだろう、と自分の事は棚に上げつつ考える。
「……あっそ。もう勝手にすれば?」
アイリスは呆れ果て肩を竦めながら踵を返した。
「あれっ? もう帰るんだ」
「あんたと居ると普段の50倍くらいは疲れる」
「そう? 初耳だ」
「ウソつかないでよ。わたしは会う度に言ってるんだけど。記憶力無さすぎて引く」
「散々な言い様だなぁ」
「あんたにだけは言われたくない」
「ふふ、言い得て妙だね」
目配せし合った2人は、吐息を漏らすだけの軽い笑みを浮かべた。いつ頃からか定着した"お開き"の合図だ。
日常の中で「さようなら」と言わないのが2人の決め事だった。それを言うのは、もう二度と合わない時だと理解していた。悲しい言葉だと分かっていたからだ。
「わたしは明日からまた"向こう"で仕事だから、もう帰るけど」
「うん」
「良い? ちゃんとケジメつけてよね? 次来た時にまた聞くからね」
「"また"来るんだ」バーガンディは隠しもせず苦笑する。お得意の演技力はどこへやら、だ。
普段は仮面を貼り付けでもしたのか本心が全くと言って良い程読み取れない彼だが、気を許した相手を前にすると表情筋がよく緩む。兎角アイボリーに対しては異常な程目尻が溶けている事に本人は気付いていない。
「来て"あげる"の。感謝してよね」
「あぁ……それはもう。ありがとう」
歩き出すアイリスに続き、暫く床で放心していたからか痺れきった両足を庇いながら入口に向かう。そこでバーガンディはふと、階段の傍に置いてある花束に気が付いた。
「あ、お土産あったんだ」
「やだホント、そういうとこだけ目敏いんだから」
アイリスはここへ来て直ぐに放り出した花束を丁寧に拾い上げ、少しばかり埃を被った花びらにふっと息を吹きかけた。
「死んだ後も皆から認知されないままなんて、浮かばれないでしょ。……ま、そもそも人目につかないように地下でアトリエ作っちゃうような人だから、そんな事気にするワケ無いだろうけど」
「喜ぶと思うよ。"こんな場所"に献花しに来るのなんてアイリスくらいだから」
「どの口がほざいてんの。心にも無い事言わないで」
「本当だよ。若い女の子が来てくれるだけで喜ぶ。自分の為に何かしてくれたらより一層喜ぶ。そういう人だからね」
「うぇ、吐き気。自虐が過ぎて笑えないわ」
「何の話?」
「さぁね」
仮面の様に微動だにしない作り笑顔を貼り付けたバーガンディをサラリと躱し、アイリスは大量のアルコール飲料が絶妙なバランスで積み上がったスペースにしゃがみ込んだ。
あまりにも粗末に、簡略化して作られた墓標の様なものである。ここに、バーガンディの祖父でありこの街の父でもあるリドヴァンと、その息子・ボルドーが眠って居るーーという"設定"だ。元々故人を慈しむ風習も無ければ、2人共々の遺骨も無い。文字通り形だけの墓だが、しがない画家であるボルドーが「祟られる」と震えながら作成した遺作だった。
誰に? 如何して? 等という疑問符は湧かない。それだけの人間性を持ち合わせたヒトだった、というだけの話だ。
「手を合わせる価値なんてないよ」
冷たく言い放つバーガンディの表情は無に等しい。
同じ血を継いでいるという自覚はあるのだろうか、と、今度はアイリスが苦笑した。
「……別に。わたし、誰かの魂の安寧なんて願って無いから」
「? ……あぁ、そうなんだ」
「ここにはわたしの魂もあるからね」
途端に、バーガンディは怪訝な顔をする。
「えっ、死んでるんだ……」
「やだ、時々とんでもなく馬鹿になるのやめてよ。今あんたの目の前に居るでしょうが」
「急に霊感に目覚めたのかなって」
「嫌ぁ……気持ち悪い……」
「辛辣だ」
「ふふっ」堪らないと言った様子で、アイリスは腹を抱えて笑い始めた。
「やだぁ! もお! 真面目な話しようとしてんのに笑わせんな! バカぁ!!」
「洒落のつもりは無いんだけどな。アイリスの笑いのツボが浅いだけだと思う」
「ははっ! サイテー! 最高!!」
「どっち?」
珍しく狼狽するバーガンディを見て、アイリスは愉悦が勝り饒舌になる。
「アホ面晒さないで。綺麗な顔が台無しでしょ、笑ってよ」
「凄いや、アイドルってアホ面とか言うんだ」
「そりゃ言うでしょ、言わせてよ。バーガンディっていつもそうだよね。そんなに話逸らすのが好き? 洗いざらい吐いちゃえば? 付き合うから。代わりにジンジャーエール恵んでよ」
「じゃあ、そのジンジャーエールを対価にお家に帰って貰おうかな」
「ふふ、好き」
「どうも」

ーー本当に、心の底から好いているんだと言えたなら、どれだけ楽になれただろう。

アイリスは重たく息を吐きながら今居る空間の全体を見渡した。足の踏み場も無い程に物が散乱したそこにあるのはほぼ9割方芸術作品で、その全てが女の姿を描いている。被写体はリドヴァンが愛したオーロラと、ボルドーが恋したブランシュだ。当人の許可無く生み出されたその作品たちは簡単に見積もっても1000点以上ある。反吐が出る様な、異常なまでの執着だ。
彫刻家であるリドヴァンと画家であるボルドーが、生前叶うはずも無かった恋心を昇華し続けた結果産まれた「恋の墓場」。命名したのはバーガンディだったが、それをいたく気に入ったのはアイリスだった。
この場を覆う重だるい雰囲気も、この場を掌握する気味の悪い冷えた空気も、全てが悲恋から生じる呪いならば致し方無しと思えたからだ。
子が親に与える無償の愛とは異なり、他人同士の恋には代償が付き物で、人生を大きく狂わせる中毒性や依存性を秘めている。心身共に犯される病の一種だ。
バーガンディがアイボリーに恋慕の情を抱いたあの日から、アイリスに勝ち目が無い事は自ずと分かっていた。だからこそ、魂の一部をこの"恋の墓場"に遺棄した。そして弔いの意を込めて、定期的にエーデルワイスの花束を飾るのだ。そうする事でこころが凪いだ様な気がした。たとえ気の所為だとしても、それが救いだと信じていた。
縋っていた、という方が正しいのかもしれない。

「好きだよ。わたし。ずっと好きなの」
不意にアイリスの口をついて出たのはそんな言葉だった。
「あんたが」とは言わない。それを敢えて伝える必要性は無かった。
「はじめて会った時から、好きだった。それは多分、これからもずぅっと、変わらないの」
「うん」
「……だから、先輩として言ってあげる」
エーデルワイスの1番ポピュラーな花言葉は「大切な思い出」。これは、天の使いに恋した男が叶わぬ恋の苦しみからの解放を望み、先方がそれを受け入れエーデルワイスの花を残していったという言い伝えが由来だそうだ。
何の皮肉だろうか。エーデルワイスはアイリスの誕生花だった。
「わたしの恋なんてもうとっくの昔に死んじゃったよ。でも"アイリス"はこうして生きてるでしょ。お姉ちゃんが何考えてんのかさっぱりだし、あんたの恋路がどうなろうが知ったこっちゃ無いけど。死ぬかもなんて怖がんな。ウジウジすんな。早くわたしの魂を安心させてやってよね。意気地無し」
「……はは、弱ったな。……全くその通りだね」
力無く言葉を吐き出すバーガンディは、視線を何処か遠くへ逃がしてこちらを見ようとはしない。
「ありがとう、好きになってくれて。……人に愛されるのは、とても素敵な事だと思う」
まるで他人事の様に呟く。あからさまな逃避に呆れもするが、アイリスは確信を持ってこの気持ちに蓋をする事が出来た。
「じゃあ、報告を楽しみにしてるから」
「うん、良い話ができる保証は無いけどね」
「それ、どっちの意味? 場合によっちゃクズ発言なんですけど」
「んふ、うん。……ご想像にお任せするよ。アイリスが僕の事を今後どう見るかにもよるだろうけど」
「サイっテー。最ッ高」
「どっち?」
「Don't Think. Feel」
「……良いね、ソレ」
「でしょ」

互いにはにかみ笑いを見せて、階段を上り、外へ繋がる戸の前で別れた。
アイリスは壁に立て掛けていた晴雨兼用傘を開くと、元来た道を引き返して大通りへと向かって行く。
昨夜の荒天が嘘の様にからりと晴れた空には、雲ひとつ無い澄んだ群青が伸びている。アトリエへ向かう際に即興で作った歌のリズムはもうすっかり忘れてしまって、思い出せなくなっていた。

「アイリスはとても優しい子だね」
記憶の中のアイボリーが語りかけてくる。
「なんで? どうしてそう思ったの?」
おそらく、物心ついてすぐの事だ。バーガンディが好きで、バーガンディを好きな自分が好きだったアイリスは、その気持ちをどうにか放出したくてアイボリーに恋バナをした。あの頃はまだ両親が生きており、姉妹仲も良く、何だって打ち明けられたのだ。世界も、大人も、相手の名前すらも知らない、純粋無垢なあの頃。当時から大人しく口数の少なかったアイボリーも、こればかりは興奮して、2人できゃいきゃいと盛り上がった。
ひとしきりの事を話して、熱が落ち着いた頃にアイボリーがそう呟いたのだ。
「アイリスがその子を好きって事は、その子を大事にしたいって事でしょう?」
「……そうかな」
「その子と居る時間が楽しくて、その時間が続けば良いのにって、そう思うでしょう?」
「それは……うん、そうかも」
「ね。それって、凄く大事な事。……だけど、大人になると段々忘れちゃうの」
「なんで?」
「なんでだろうね。でも、心にぽっかり穴が空いた感じがして、寂しくなって、周りの人をいじめちゃうの」
「ひどーい」
「ね、酷いよね。それが恋」
「じゃ、わたしもそうなるの? ひどいことしちゃう?」
「しないよ。だって、アイリスのそれはきっと、恋じゃなくって、愛だから」
「どうちがうの?」
「分かんない。お母さんは、そこまで教えてくれなかったから」
「そっかぁ」
「そう。だからね、アイリス。その気持ち、ずっと大事にしてね」
アイボリーはそう言うと、細く痩せた手のひらでアイリスの頭を優しく撫でた。
「人を愛せるのは、とても素敵な事だと思う」
ふたりだけの秘密基地で、アイボリーは顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
屋根裏の小さな窪みに布で覆った簡易的な空間。光が届かず己の手のひらですら見えないあの場において、その笑顔だけは、やけにはっきりと見えたのだ。

ーーとても素敵な事だと思う。
バーガンディもつい先程言っていた、その言葉が酷く頭の中でこだまする。褒め言葉であるはずなのに、今にも泣き出しそうな、苦しげな表情で語るその姿が堪らなく嫌いだった。

「お似合いだよ、畜生」
アイリスはその場にしゃがみ込んで、泣いた。
えーん、えーんと、子どものように泣いた。
通行人の目も気にせず、大きくしゃくりあげながら泣いていた。

頬を流れる大粒の涙がやけに暖かかった。
肌に触れる空気までもが暖かく、じわじわと体温を昂らせる。
梅雨だなぁ、と思った。

カラン、コロン。
グラスの中の氷が溶けて、音を立てながら更に底へ底へと落ちていく。
レストランアデッサの店内には未だ3人が居た。泣き疲れたのか気絶する様に寝入ったオランジュを気にかけて、机を囲んだそのままの状態で一夜を明かしたのだ。
明け方の5時頃に目を覚ましたヴィオレは、毎日のルーティーンとして朝の支度を済ませた後、3杯目のバタフライピーを飲み干した。
「ごめんなさい。なんだか、思ってた以上に重い話に巻き込んじゃったみたいで」30分ほど遅れて覚醒したアイボリーがぽそりと呟く。
「あのねェ、アンタ、それもう何回言ってると思う?」
「えっと……5回?」
「28回目!! 日を跨ぐ前からずっと同じ事しか喋ってないのよ! ロボットかァ? 良い加減にしなさいよノイローゼになるわ!!」
「そんなに、私、喋ったかな」
「アー、アー、喋った喋った。アタシはアンタが昨日からくっちゃべった文言をひとつ残らず覚えてンのよ。なンなら寝言も教えてやろうかァ? え?」
「わぁ、いつにも増して口調が荒い……」
「アンタが寝ぼけてるだけでしょ。 ホラ、ブラックキメて目ェ覚ましな」
「コーヒーで"キメる"って言う人初めて見た……」
アイボリーは手渡されたアイスコーヒーを小さな口でちびちびと飲んでいく。苦手とまでは行かないがあまり得意でも無いらしい。手のひらでグラスの側面をコロコロと転がし、味に集中しない様にと気を逸らしているのが分かる。その節榑だった指先は黄色と橙のペンキに塗れ、本来の爪の色も把握できない程に汚れていた。
「…………良いの? 本当に、"それ"で」
涼やかな表情とは裏腹に、声のトーンを落として尋ねるヴィオレの胸中はざわついていた。
心臓の拍動が耳のすぐ側で聴こえて来る。どっくどっくと馴染みの無い音が響いていた。
この件に関わる最年長者としての責任感もあるが、何より心配なのはアイボリーのこれからの人生についてである。
昨夜彼女が告げた展望はあまりにも合理的で、理想的なものだった。だがそれはあくまでも事を俯瞰して見たならばの話である。アイボリーが主役である物語を、彼女が不在のまま読み進めていく様な、えも言えぬ不快感がそこにはあった。
「……うん。……そうした方が良いのかな、って」
「ほらまた。アンタの意思じゃないでしょ、そんなの」
「でも良いの。いつかはこういう事も経験するんだろうなぁって思ってた。だから、誰の所為でもないよ」
瞼を伏せて笑うアイボリーの頬が薄紅に彩られる。
「ヴィオレには迷惑かけちゃうかもだけど……」
「どこで照れてんの」
「ごめんね。嫌な役回り押し付けちゃった」
「いーのよ。年上なんてじゃんじゃん頼るが吉でしょ。たくさん甘えて。むしろ役満だわ」
「……うん、ありがとう」
ガラス扉の向こうでは、既に観光客がちらほらと現れ始めている。ハニカムスクエアの端に設置されたスピーカーから、陽気な音楽と共に今日のタイムスケジュールを告げる観光案内が流れていた。それなりに距離が離れたこの場所にも微かに余韻が響いてくる。シアンタウンの名物のひとつだ。人々はこの音楽を基準に生活の区切りを付ける。視覚に頼らない時刻の把握は、アイボリー含む数多の仕事人に大変重宝されていた。
「私、もう帰らなきゃ。今貰ってる仕事、早く終わらせなきゃいけないし」
「そ。あんまり急くのもおすすめしないけど。アンタがやりたい様にやりゃあ良いわ。……また顔見せに来なさいよ」
「うん。もちろん。近いうちにまた来るね」
「こっちの少年はアタシに任せときな。店開けるまでには叩き出すからさ」
「ふふ、優しくしてね」
「……考えとくわ」
その後も「片付けを手伝う」と言って聞かないアイボリーを半ば強引に店の外まで送り出して、ヴィオレは元居た席にどかっと腰掛ける。気が抜けたからか勢いがつきすぎて、椅子がキュッと悲鳴をあげた。
「……盗み聞きが趣味たァ頂けないねぇ」
その一言にピクリと肩を揺らして、オランジュが目を覚ます。
「違うよ。起きるタイミングが分かんなかったんだって!」
「良く言うわ。寝たフリも下手くそで不器用なのね」
「なんだよ〜、それはお互い様だろ」
「…………そうね、それもそう」
ヴィオレはきつく目を瞑って、頷きを返す。
「アタシ達みーんな、こぞって不器用で、救いようが無いんだわ」
自分を抱き締めるように腕を組み、はっと息を吐き出した。
「もどかしい……」
小さく吐露する彼女の、長いまつ毛が揺れていた。

キィィ、キャン、と音がしてガラスが割れる。
想像したものとかけ離れた可愛らしい音に、バーガンディの心は酷く冷めてしまった。
アイリスに対しては「片付け」という言葉で濁したが、実際に彼が行っているのは破壊である。
"恋の墓場"に収容されている無惨な恋心の出涸らし達を、一つひとつ原型が無くなるまでぐちゃぐちゃに壊していく。
今目の前に鎮座するのは、「ブランシュ・メラ・ブルネージュの胸像」。リドヴァンが急性心不全の為この世を去る直前まで手を加えていた作品だ。西洋の近代美術風に柔らかな質感で産み出されたそれは、長く緩やかにウェーブした髪を右肩に流した女性の姿をしている。一目惚れだったオーロラを愛し、結ばれる事は叶わずとも一生分の愛を捧げたリドヴァンが、唯一オーロラ以外をモデルにして作成した貴重な作品である。顔の右半分だけ未完成のままだが、当人の手記によればこの作品はこれで完結しているらしい。


作品名の横には「俺以外の奴と子どもをこさえるからこうなるのだ。彼女の娘には悪魔の血が混ざってしまった」等という文言まで丁寧に添えられている。
死の間際、ありったけの憎しみを込めて作り上げた、まさに呪物と呼ぶべき一族の汚点だった。
「……僕は違うよ」
バーガンディはその像に軽く触れながら呟く。
「僕が好いたのは貴女の血じゃない」
目の下の膨らみ、頬の部分を手の甲で優しく撫ぜ、ひと思いに地面へ叩き落とした。
首元からパキリと折れたが、粉々にはならない。

当然、気分は晴れなかった。

朝と昼の中間。
この時期は特に日差しの熱を感じて、地面が波の様に揺れている。
「あちぃー……」
レストランアデッサから実家の農場へ戻ったオランジュは、事前報告の無い朝帰りを酷く叱られ、罰として炎天下でのフライヤー配りを命じられていた。
街の中心部から少し離れたターミナルエリアは連休の最終日とあって、大勢の人で溢れ返っている。
1歩間違えれば押し潰されてしまいそうな密集地帯をどうにかくぐり抜け、子ども連れで賑わう噴水広場へ辿り着いた時、ふと見覚えのある人物が視界に飛び込んだ。
「あれ……」
純白のワンピースに黒いレースの付いた日傘。薄桃の長い髪。
「なんて言ったっけ……えっと……」
関わりがある訳でも、興味がある訳でも無い。それでも何故か、今この瞬間に引き留めなければならない様な気がした。
「あの!さ!」
背後から大きく声を掛けてみるものの、幾人かが怪訝な顔を向けるだけである。
彼女の名前はなんと言ったか。オランジュは日射に当てられジリジリと茹だる頭で考える。口の中に鉄の味が広がり始めて、ええいままよと声をはりあげた。
「"イヴ"ちゃんの妹ちゃん!!」
反動で思いっきり外気を吸い込んでしまい、喉がチリチリと痛む。涙目になりながらも前を向けば、赤く腫れた瞳とバッチリ目が合ってしまった。
「……誰? あんた」
ウインクガーデンの祭りで観客を虜にしたあの面影は一切無い。アイドルのコスプレをした一般人だと言われても頷ける様なその変貌っぷりに、オランジュはほんの少しだけ畏怖を感じた。
「……何? なんか用? ナンパなら警察突き出すけど」
そう言って少女はおもむろにスマートフォンを取り出している。
「いーや、待って!! ナンパじゃねーよ! キミさ、あれだろ、ルドーの知り合い。で、"イヴ"ちゃんの妹」
「…………だったら何。てかあんた誰」
「あー、おれはオランジュ。ルドーが前にうちの農場で働いてたんだよ、聞いてない?」
「あぁ……。すぐ辞めちゃったやつ……」
「そー! それで、急に来なくなっちゃって、心配したのにさ、ルドーのやつスマホ持ってなくて! そしたら"イヴ"ちゃんに会ってさぁ! それで、おれ」
「あー……」
つい興奮して早口で喋り出すオランジュを、地を這う様な低音が遮った。
「お姉ちゃんから何か聞いた?」
「……えっ?」
「わたしの事、何か聞いたかって聞いてんの」
「え、いやぁ……なんか言ってたかな……」
「あは、言うワケ無いよねぇ! ……知らないもんねぇ!!」
少女は持っていた日傘を放り出して声高に笑い始めた。
「……は、……何、」
狼狽するオランジュの前で、アイリスは陽の光を浴びて朗らかに笑う。

「"ルドー"のパパと、"イヴ"のママが、フリンして出来た子どもなんだ」

「はぁ?」あまりにも唐突に降って来た衝撃の言葉に、オランジュは上手く脳内変換が出来なかった。
「なんて……?」
「うん、えっとね、……あのさ」
ゆらゆらと肩を揺らすアイリスは、例えるならば幼い子どもがひとりでトイレに行けたとか、ご飯を残さず完食出来たとか、そんな日常の些細な出来事を報告するかの様に、純粋なあどけなさを醸し出していた。

「産まれちゃいけなかったの、わたし」

街路樹にしがみついた蝉がわんわんと鳴く。

「人殺し、なんだよね」

最期の力を振り絞ってじぃじぃと羽音を鳴らし、ぼとりと地面に堕ちていった。

「3人も殺しちゃったの」

羽音はまだ鳴り続いていた。
ジーヨ、ジーヨ、と泣いていた。

「……ふふ」

ーー梅雨が終わり、乾涸びる様な、灼熱の夏が訪れる。


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