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ソーシャルワーカー視点で綴る「レ・ミゼラブル」のブックレビュー

一度は聞いたことがある、レ・ミゼラブル。かの有名なユゴーの作品です。映画やドラマにもなりましたし、ほとんどの方がご存じですね。

でも、本を読んだことがありますか。私はまだ時間があった学生の頃、あらすじを読んで読む気が失せました。「一人の青年がパンを盗んで、つかまる・・。」??とても自分の人生のモデルになるような学びはないだろうと。

30歳過ぎてから再び手に取り、頑張って読みました。和訳の本って、どれも相当読みにくい。状況説明を物語の進行とともに描くのではなくて、説明してから物語が進行するという流れです。ゲーテの『ファウスト』は何度途中で寝たことか。それに比べれば読みやすい。そして頑張った先に得るものは間違いなく大きいです。

まず、前置き、そして少しだけあらすじを書きながら感想を述べます。下手なイラストとともに(笑)

ネタばれ注意ですが、あらすじがわかっても感動はなくなりません。そういう類の書物ではないと思いますので。

前置き

さて、タイトルのれ・ミゼラブルは、『悲惨なる人々』の意味です。和訳本の訳者による序文には、このように書かれています。

「一度深淵の底に沈んだ彼(ジャン・バルジャン)は、再び水面に上がることは、いかなる善行をもってしてもこの世においてはできなかったのである。いや不幸なのは彼のみではなかった。種々の原因のもとに『社会的窒息』を遂げた多くのものがそこにはいた。(中略)ただ、この世において救われたものは、マリユスとコゼット(ジャンが自分の娘のように育てた子)のみであった。なぜであるか?彼らまでも破滅の淵に陥ったならば、この物語はあまりに悲惨であったろうから。」

時はナポレオン凋落期→王政復古の流れの渦中。正義や真実がまかり通らない、福祉制度なんてない動乱の社会で生きる悲惨な人々が描かれており、主人公もその一人。

作者は、社会に対して欠陥だらけだと告発したいとの思いもあったのでしょう。その点を読みながら考えるのもおもしろいです。しかし、私は人間の中にある、社会などの外界が決して汚せない『何か』を描いている作品だと思います。

あらすじと感想

悲惨な人々の筆頭が、ジャン・ヴァルジャン。とてもやさしく強い青年で、姉とその7人の子どもと暮らしていました。が、困窮世帯。生活保護という制度はもちろんありません。ある日食べるも仕事もなく、やむなくパン屋のガラスを割ってパンを盗む→捕まるわけです。そして19年もの長きにわたり、徒刑場へ。世の理不尽に怒りを燃やしながら過ごします。

ジャン

放免されたときすでに40歳代。無論ですが、更生保護施設なんてありません。元罪人だと誰も受け入れてくれない(食事なし、宿無し)なか、教会へ。ミリエル司教は自然にジャンを受け入れます。ジャンが徒刑場にいたことを自ら話したにも関わらず。ジャンの過去を強いて聴くこともなく、説教することもなく食事と寝床を与えます。ミリエル司教は、罪人と呼ばれる人たちの罪は、社会の罪だと洞察していたのです。

その直後ジャンは、教会の銀の食器類を盗みます。その後すぐに憲兵に捕まり、ミリエル司教のもとへひかれてきます。司教は、「おぉ、会えてうれしい。ところで、私はあなたに銀の燭台もあげたのに、なぜもっていかなかったの?」と事も無げに言ってのけます。そして、解放されたジャンに、銀の燭台を渡す。そして、こう述べます。「忘れてはいけません。『この銀の器は正直な人間になるために使うのだ』と、あなたが私に約束したことは。」と。ジャンの中で一大変化が起こります。ここが多くの人が知る、有名な銀の燭台の部分です。(確か、国語の教科書に載っていませんでしたか?)


燭台

人が蘇生するには、やはり公的扶助などの支援制度が必要なのです。そして、人との出会いも。

この一瞬ともいえるミリエル司教との出会いが、ジャンの人生における誓いになり、この物語が始まっていきます・・。

その後もジャンは次々と悲劇に見舞われます。(磁石かと思うほどです)善行をなそうと別の町で暮らし、経営者→市長になり信頼を勝ち得ても、過去がばれてしまいます。そんな中、ファンティーヌという寡婦とジャンは出会います。

このファンティーヌも悲惨な人々の一人。女性1人で子も育てれず里親に預けるも、最悪な人物。一人で働くも里親にお金を要求されるわ、病気が悪化するわで。冬も暖房なし。ついに解雇され、きれいな髪の毛を売って生活。それもできなくなったとき、娘の養育費を稼ぐために身体を売るように。

保育所があれば・・児童扶養手当があれば・・。現在でも、もし制度がなければ、こんなに悲惨な女性をみかけるようになるのかもしれません。

ジャンは再度捕まるも、脱走。ファンティーヌから頼まれた彼女の実子コゼットの救出を果たすために。最低最悪の里親から虐待されているコゼットをみつけて保護、逃げるも、なぜか腹黒い人々との縁が切れない(なぜか逃げた先で、悪人が近くに住んでいたり)、無慈悲な警察官ジャヴェル(社会の制度を全く疑わず、例外は一切認めず、機械的に仕事をこなす公務員の鏡!)にも執拗に追われたりして平和的な生活にはなりません。

深く潜んで、コゼットを宝のように育て、それが唯一の生きがいになるも、成長したコゼットは、マリウスいう男性と恋に落ちてしまいます。その精神的ショックをなんとか乗り越え、受け入れます。今度はそのマリウスが革命へと身を投じます。

すべてを失った初老の人が、娘を取り戻すチャンス!ここまで葛藤を乗り越えて、善への選択を常にしてきた・・。年齢も重ね、今更逆転劇が待っているとも思えない。せめて、娘を。

しかし、ジャンの生きざまはここからさらに輝きます。これまで多くの誘惑(怠惰や悪)を断ってきた彼。革命に身を投じたマリウス、それを嘆くコゼットのためにもうひと肌脱ぐ。命がけで婿になるマリウスを救出。さらには無慈悲な警官ジャヴェルの心さえ・・。

しかし、マリウスに自分が罪人だったことなどを打ち明けると、理解されず疎んじられる・・。

理不尽な社会を恨むのが当然です。正直ここまで読み進めるうちに、「そんなことって、ある!?」と、ひやひやといら立ちの連続。『ジャン、よくここまで頑張った、俺は全部わかっているよ。』『ジャンおじいさん、もうケアハウスでゆっくりしましょう。空いている施設探すから。』と声をかけたくなります。

彼の手には、眼に見えるものは結局何も残らなかった。でも、他の人の肉眼には見えないものがちゃんと残っていました。

仏典から

この話を読み、ある仏教説話を思い出しました。「乞眼の婆羅門」という話。(わかりやすく、私なりの文章にしています)

釈尊の弟子である舎利佛(しゃりほつ)さんが過去世、人を救うために菩薩行、布施行を行っていた時、バラモンさんがやってきて、『菩薩だろ?困ってて必要なものをくれるんだろ?なら、あんたの眼をくれないか?必要なんだよ。それが。」と求めました。舎利佛は、自分の眼をそのバラモンさんに差し出しました。しかし、バラモンさんは、その眼を『臭い!』と言って地面に叩きつけ、唾を吐きかけ、踏みつけて去る。その姿をみた舎利弗さんは、「あんな人、救えんわ!腹立つ!もう自分だけよければいいわ。」と、菩薩の行(人を救うこと)をあきらめてしまった。そして、その後長い期間、仏にもなれなかった(満足な人生も得られなかった)という話。

舎利弗は何も悪くない、むしろ怒りに身を焦がして当然。善悪を問われると、悪は絶対にバラモンさんです。ですが、人間の可能性を見失った中には幸せはない、問われているのは常に自分がどう生きるかということなのです。

終わりに

さて、レ・ミゼラブルですが、最後は、銀の燭台の光の中で。この部分はとても印象的。銀の燭台に、誓いの火は灯り続けていたのです。

この物語は、人間の真価は詩人の眼でしかあぶりだせないと言われているように感じます。

私はクライエントと関わるとき、その人の人生の真価がみえているでしょうか。

今、目の前にいる方がどんな姿であっても、本人の真価とは関係ない。もっといえば、どんな人にも、心の奥底には可能性が眠っているのです。警官ジャヴェルがそうであったように。

私たち福祉に携わる者は、客観的に観察できる事実だけでなく、その前提として、人間の真価を見る心の眼が必要だと思います。そのことを教えられる良書です。

相模原市の障がい者施設で起きた事件、あの被告にはそれがみえなかったのでしょう。見ようともしなかったのかもしれません。


長編で長いので、覚悟のうえでお読みください。良質な時間を過ごせるとともに、極上の読後感が一生残ると思います。


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