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大いなる海とフィクションと

唐突に、海が恋しくなるときがあります。

海が見えるところで生まれ育ったわけではありません。
甲殻類アレルギー持ちなので、食べ物も海の幸より山の幸の方が好きです。
なのに、なぜか、時折無性に海を眺めたくなるのです。

幼少期に初めて行った海水浴場で、無数のクラゲに怯えて父にしがみついたまま泣いていました。これが、わたしにとっての、海に纏わる最古の記憶。
「クラゲに刺されて死ぬかもしれない」
「海の底へ引きずり込まれるかもしれない」
幼いわたしに強烈に残った海の印象は、未知への恐怖のみ。
その後の人生においてもずっと、海があまり好きではありませんでした。
しょっぱいしベタベタするし、フナムシとかいるし。泳ぐならプールのほうがいい。

でも大人になってから、海の美しさを知りました。
陸とはまったく異なる姿の生命に溢れていて、どこまでも広大で、空の色を映してゆらゆらと輝いている。
(画像はハワイに行ったときに撮影したものなのですが、この時のカメラロールを見ると記憶が鮮やかに蘇ってきて溜め息が出ます。)

二十年以上生きてきて、ある程度のことはなんとなくわかった気になっていたけれど、海を目の前にしてしまえば言葉もプライドもまったく意味を持たなかった。
人間とは、恐ろしくちっぽけなものなんだと思い知らされました。

少し前に話題になった『サピエンス全史』で、著者のユヴァル・ノア・ハラリは「この世界は全てフィクションである」と書いていました。
ホモ・サピエンスは虚構を語り継ぐことができる唯一の生物なんだそうです。
嘘をつき嘘をつかれ、信じては裏切られ、そんなことを繰り返しながらも人類はずっと「幸せ」になりたいと願っている。
富も、名誉も、成功も失敗も、すべて人類が作り上げたフィクションだと考えたら、自分が求める「幸せ」とは一体何なんでしょう。

幼い頃あんなに怖かった海水浴場のクラゲ。
毒性が弱いから刺されても死ぬことはないし、どんなに沢山いても海に連れ込まれたりはしないということを、今は知っています。
けれど、自分が想像した虚構に怯えているのは、大人になった今も変わらないのかもしれません。

人間は単独では非常に弱い生き物だから、仲間を作って安心するために、さも真実であるかのようにフィクションを嘯いている。
物の値段なんて時代とともに変化するし、どんなに信じていたものでも、次の瞬間すっかり消えてなくなってしまうことだってあります。
わたしたちは、自らが作った「価値」や「正義」に怯え続けている。
じゃあ、何が幸せなのか?なぜ生きているのか?
どんどん増えるフィクションに埋もれて気づかないだけで、この小さくて弱い心は生まれてからずっと、何かを叫んでいるはず。

海は、ただ、そこに在ります。
波も砂も、常に形を変えながら、空の色を映して、ひたすらに寄せては返すだけ。
わたしは、自分がただ「在る」ということを感じたくて、海を恋しく思うのかもしれません。

じっとそこに立っていれば、波の音に呼応するように、自分の心の叫ぶ声が聴こえるかもしれないから。

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