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言葉にしなきゃ伝わらないけど、言葉にするにはあまりにも疲れる

こんばんは。あやかです。
最近外食ばかりしており、お家でご飯を食べていないな…ということに気づき、少し落ち込みながら記事を書いていますが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

さて、今日はまた「言葉」と向き合ってみたいと思います。久々に真剣に文字を書こうかな、という気持ちなのです。
じゃあ普段は真剣じゃないのか?と思われるかもしれませんが、普段は割とラフな気持ちで書いていて、自分と向き合いながら書くというよりかは、自分の心の出汁をすくって、うまいこと調合して「記事」という料理にしている感じです。
今回は、普段の自分と向き合ってしっかりと書いてみようかなと思います。



豊かになりゆく感性と、語彙力の低下


日本には、時がたっても色褪せずに美しいものがたくさんある。春夏秋冬、木々の移り変わり。日本にしか咲かない花。先人が残した文芸作品。高く誇らしげな富士の山。
それと同時に、技術の発展により、これまで三次元世界では見ることのできなかった異次元的な美しさが簡単に手元で見れる時代になった。
「文化的な美しさ」でいえば、ボーカロイド楽曲などは確実にこれから先何百年の歴史に名を刻むであろう美だろう。
「街並みの美しさ」だと、近代的な建物が増えてきたと思う。その建物が実は市役所だったりとか、市民ホールだったりとかすると、やはり時間はしっかりと流れているのだなと実感する。まさに、近代化の渦の中にいることを感じる。目に慣れないものが、街の中に紛れていることが増えたと思う。それらの集合を無機質と捉えるか、目新しい未来が見えてきたと感じるかは、人それぞれだ。

受ける情報が増えた私たちは、一つ一つの情報を噛み砕く。
易しい情報が増えたのではない。小難しい情報が、ちょこちょこ落ちているから、結局はしっかりと砕いて見なければ間違ってしまう。情報処理能力というのだろうか、最近の人はこの力が強くあることを強く求めていると思うし、強くあるべきなんだろうと私も感じる。

そうして、受ける情報はやがてさまざまな“感情”となり、言葉になりゆくわけだが、ではその言葉というのはこの長い日本の歴史の中で、進化しただろうか?
私は、そうは感じない。

日本語を操るのは難儀だ。それは何千年も前から同じだったと思うが、一つの単語を取ると「隠された意味」がたくさん浮かび上がってきたり、必要以上に簡略化された日本語だったり、果たしてそれらを用いて正しい情報を外に発信することができるのだろうか?
隠された意味を何個も秘めた一つの言葉があるのなら、語彙を増やして何個もの日本語を操ればいいのに。
簡略化せず、真っ直ぐに伝えたほうがわかりやすいのに。
言葉の発信を諦めると、人同士の結びつきは薄弱になる。一体何で繋がっているのか?
まったく難しい時代になった。



SNSでの結びつきは“強すぎる”のに

TwitterやInstagram、Facebookなどのコミュニティは、今や誰かの命を救う場所にもなっている。その反面、誰かの命を容易に奪う場所にもなっている。
そんな恐ろしい仮想世界の中、私たちは声を上げ続けている。それも、普段は絶対声に出して言わないような意見を上げている。実際、私のこの文章だって普段は外で言ったりしないわけで、ここでなら書けると思って書いている。
そういう意見を上げ続けていると、批判と賛同はつきものだと思う。しかし、それはあくまで仮想世界の中での話だ。現実世界では声を上げたって知らんぷりをするのに、だ。

そう。素性が明らかでないというだけで、仮想世界の中の我々の結びつきは“強すぎる”のだ。いい意味でも悪い意味でも、常に互いを見ている。
何でも言えるのは、誰とも目が合わないから?お互いのことを知らないから?職場や学校の友達じゃあるまいし、自分以外のユーザーはこれからの人生に関係ないだろうから?
いや。おそらく、感じたことを文字に起こす時間がそうさせているのだろう。


疲れることをわざわざしたくないから

感じたことを言葉にするには、本来ならとても時間がかかると思う。
会話は、ドラマのセリフみたいに綺麗である必要はないけど、目の前にいる人を出来るだけ不快にさせないようにだとか、多少の気を遣ってするものだから、みんな一回頭で「これは言っていいのか?」と考えることもあると思う。
しかし、このように【考えて言葉にして考える】を繰り返していたら、会話はいつまでも前進しないし、つまらない。だから人は、時々会話で相手を傷つけたり、自分にしかわからない発言を言葉を使ってしまうんだと思う。そういう傷を経て、我々は会話術・チクチク言葉防御術を学んでいく。

ただ、SNSは訳が違う。
【考えて言葉にして考える】という時間がありすぎるのだ。みんな練って、自分の言葉にして投稿している。それを日々のストレスの捌け口として利用している人も多くいると思う。
それに、言葉と違って、間違ったって消せる。

だから、言葉にすることが疲れたって、ある程度なら続けようと思う。
それに、本物の言葉にしてしまったらあまりにも浅い表現になってしまうことが、昨今の世の中にはたくさんある。
本当の言葉にしてしまったら、辛いことだってたくさんある。

こんなに豊かにいろんなことを感じる私たちなのに、言葉にするのには不安。自分の発信する言葉にさえ、豊かな感性を働かせている。みんな見ているからだろう。
誰の耳にも止まらない独り言が、この世界で一番分厚い言葉なのに、そんな言葉は誰も聞いていない。
聞いていたとして、君は何と言ってくれるか?君もまた、よく考えるだろう。

人に見られているからといって、当たり障りのない流行り言葉を使えば大丈夫なのか?


ダメもとで、好きな日本語を使う

もし意味が間違っていたとしても、私たちは好きな日本語を使いまくるべきだと思う。
意味が違ったら調べればいいし、中には賢い人がいて、教えてくれたりもするものだ。
それは絶対恥ずかしいことじゃないし、むしろ素晴らしいことだと思う。言葉で人が強く固く結ばれること。
失敗のほうが、人を強く結ぶし、深い印象を与えると思う。

今こそ、背伸びした日本語を使おう。
感情のまま言葉を紡いだって、いいと思う。当たり障りのないなめらかな日本語より何倍も鮮烈なのは、君が使ったことのない、もっと“図太い日本語”なのだ。
会話の中で「ああすべきこうすべき」と考える時間を余裕に変える術はずばり、背伸びだ。


最近、自分の日本語力が下がってるなと思って書きました。

嬉しいことがあると、その嬉しさが終わった後の「宴のあと感」まで見える気がして、「今嬉しい!!」という言葉より先に「悲しい」と言ってしまいます。バグか?

何も悲しくないのに、全てを先回ってしまって、ちょっと恥ずかしいですね。
この記事自体、最近の日本語がどうこうとかではなく、自戒みたいなところがあるので、「好きな日本語を使う」ということをしっかり胸に刻んで生きていこうと思います。


皆さんも、自由に日本語を使いましょう。私はみんなが自由に日本語を使っているところが、たくさん見たい!デカい舞台とかで全然知らない人が最近あった楽しかったことみたいなのを発表する会とか、やりたいし!知らない日本語出てきても、楽しいし!
なんか、まあ、会話はもっと適当にやりましょう。日本語なんて結局は難しい。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。良い週末を!

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