物語と装丁とブックカバーと
大学の一般教養でとっていた文学の講義がとても好きだった。
とは言っても、谷崎潤一郎や太宰治など日本文学をやったなあ…くらいのうっすい記憶しかないんだけど。それでも思い出すと、やっぱり好きなんだよなあ。
その講義で、いちばん記憶に残っているのは「装丁」をテーマにしたもの。絵画や写真、デザインとしての芸術的価値、というよりも、素晴らしい装丁がなければ、素晴らしい物語が世に出るのは難しい、という話だったと記憶している(名作は装丁も素晴らしいのだ、だったかも)。
確かに、いかなる小説も、まずは本に触れて、ページをめくってもらわないことには、名作たる面白さを伝えることはできない。タイトルや作者名に惹かれて手に取ることもあるだろうけど、表紙(ジャケット)の引力はなかなか侮れない。
小説と装丁は、絵画と額縁の関係と似ている。そう思ったエッセイが、銀座で画廊を経営する種田ひろみ氏の「画商のこぼれ話」の一編だ。
私は小説を読むとき、ページを開く前にジャケットを取るようにしている。がさつな性格を自覚しているし、本を風呂場に持ち込んだり、ごちゃごちゃのバッグに放り込んだりするから、避難させるのだ。
本をカバーするためのものを、あえて外すって何だかおかしいけれど。装丁の講義や種田氏のエッセイを思い出すと、あながち変な感覚でもないのかなあ…と紙袋を刻みながら考えた。
本日の新作、カルディのブックカバー。
かれこれ10年以上愛用している革のブックカバー。これに収まらない小説を読むときは、包み紙や紙袋を切って専用のブックカバーを作る。厚手で丈夫で、何より自分が好きなショップの紙袋だから可愛いし、ときめくし。
読み終えたら、その自作カバーは捨てる…つもりでいたけど、未だに残してあるものも。
私にとっての読了とは、あとがきや解説、巻末の既刊紹介など隅々まで目を通して、改めてカバーをつけなおす、装丁を眺める、本棚にしまうまで。そして読み始めは、装丁を目にした時からなのかな、と思っている。
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