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「丁寧に」と「きちんと」は身体で覚えるものだった

私「もっと丁寧に書こうよ」
娘「書いてるよ、丁寧に書いてるよ」
私「それ、丁寧って言わないんだよ」
娘「丁寧だよ!」
私「じゃあ、一画ずつ、見本を見ながらゆっくり書いてみて」
娘「分かった」
私「できるじゃない!それが丁寧だよ!」
娘「綺麗にかけた(満足気に鼻の穴を広げる)」
私「その調子で!ハイ!次も!」
娘「え、まだ続くの…」

こうも私と娘の「丁寧」が違うとは…。

娘が小学校に入って、一番ありがたいなぁと思うことは
「字を『丁寧に』書く」ことが宿題であることです。

とにかく、丁寧に、最後まで粘り強くやり切る。
鉛筆と消しゴムがどんどん消費されることは気にせず、
とにかく、見本と睨めっこしながら、一画一画を丁寧に。

そこに重きをおいて指導してくださることが
とてもありがたいなぁと感じています。

冒頭のようなやりとりを通して、改めて思うことは
「丁寧」は心掛けることではなく、身体でその感覚を持つこと、だということです。
そして幼いうちに「丁寧感」を身につけていることは、非常に大切だと考えています。しかも、質の高い丁寧感である必要があります。

「丁寧」を伝えるためには、言葉のやり取りだけでは伝わらず、一緒にやって見せる、寄り添いながら何度も何度も繰り返す必要があります。

「丁寧であるの基準」が口伝的に伝わって行くことを考えると、親がすでに持っている自分の「丁寧感」が本当に「丁寧なのか!?」を改めて見直す必要が出てきます。本当に責任重大。

でもこの丁寧感が、全ての行動や所作の礎になると考えればちょっと頑張る価値もあるというものです。

さて「丁寧に」と似たような言葉で「きちんと」があります。
きちんとしましょう。この言葉も、人によって感覚の違いが大いに現れるところです。

以前、客室乗務員をはじめとする、航空業界を目指す方が通う予備校で講師を務めていたことがあります。

「来週は、髪の毛をきちんとまとめて来てください」

翌週、目の前に現れたのは、(私からすれば)髪の毛ボサボサの少女たち…。
人それぞれが持つ「きちんと」との違いを感じた出来事でした。

だからここでも、一緒にやって見せる、何度も何度も繰り返す。
相手は大人なので、具体的であれば基準を言葉で伝えることもできます。
例えば「後れ毛を一本も残さない」のように。
(ただ、「髪の毛一本も残さない」なんて、できるわけないじゃん、大袈裟!そこまでするの?と大抵言われるので…実際にして見せることは欠かせません)

「丁寧に」も「きちんと」も繰り返して、身につける。
そうすれば、何かに迷った時に、自らが立ち返る場所となっていつも自分をそっと支えてくれると思います。

だからこそ、まだ感覚が真っ新な子どものうちに
「丁寧に」「きちんと」を「当たり前」にして欲しいと母は願うのです。



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