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国会議員秘書を退職いたしました!


お疲れ様です!橋本彩斗ことAYATAOBLOGです!

約2年間勤めさせていただきました、国会議員事務所を退所いたしました!
秘書という立場上、表立って「国会議員秘書やっています」と言ったことはありませんでしたが、このたび退所することに今後の僕の人生プラン上隠すことでもないと考え、秘書業務も誇りと責任を持って行なっていましたので、あえてご報告させていただきます。

思えばボランティア期間を含め約2年間、20歳の大学生ができない経験、会えない人々、知る由もなかった政治という世界を知り、自分の故郷がどう動き、誰が動かしているのかを知る経験となりました。僕にとってこの経験は未来永劫、財産になると思います。本当にありがとうございました。

辞めるに至った経緯

それは本当にさまざまです。正直申し上げて、単純な理由ではありません。好きとか嫌いとかそう言った類の話でもありません。実は辞める結論に至ったのは本当にここ最近のことです。それまで、この7月の1ヶ月間必死に今後について考えていきました。自分にとって最良の結論はなんだろう?双方にとって良い判断はなんなのか?結論を出すのに時間がかかりました。

私は大学生でありながら、事務所において秘書という肩書きで業務にあたっていました。本来なら、インターンやスタッフという呼ぶ方が事務所としても安全だったと思います。社会もろくに知らず、政治の世界も初心者ではあったものの「事務所に僕の人生を全ベットして星雲の志を持ってこの仕事をやりたいです」という心意気を買ってくれ、事務所の運営や政策づくり等なども任せてくださいました。

そうした中で、小さな事務所ということもあり、上司と呼べる方が2人だけしかいませんでした。僕からすれば、この2人は人間的には決して嫌いでもありませんし可愛がってもくれました。しかし少しだけ、違う部分がありました。それは、情熱と言った方がいいのか、僕でも言葉に表すのはとても難しいのですが、2人ともやる気は当然ありますし、僕よりもやっぱりすごいと思えるところがある。ひとりは長年秘書務めたベテラン。もうひとりは元市議会議員。どちらもこの世界においてはベテラン。だからなのか、冷静かつ沈着に仕事をこなし、トラブルも解決する。これはとてもすごいことなのですが、僕としてはそこに情熱が欲しかったし、あるのではあれば言葉にして欲しかった。

とても抽象的な話になってしまったので具体的にお話しすると、事務所のボスである国会議員が選挙に初当選し、いよいよこれからというある時、事務所に届いた胡蝶蘭や選挙後の片付けをする日がありました。その日は僕と議員、元市議会議員の秘書の3人で片付けを行なっていました。気づけば、お昼をすぎ夕方ぐらいに3人で昼食を取り、解散しました。その時に秘書の方に車で最寄り駅まで送っていただいたのですが、その車中で、昼食時に議員が話していた目指すべきビジョンや今後の方針についてふたりで軽く話していたのですが、僕は正直、わからないことだらけ、それでもそれなりに振り絞って秘書の方に「こんなのできたら面白いですよね」と意見を言うと「いや、難しいと思うよ」や「いや、できないね」と一蹴されてしまいました。正直これには面食らってしまい。この辺りから「意見しても変わらないからなぁ〜」というように自分から蓋をしてしまっていました。

それでもどうにかしなければいけないと思い、事務所にコミットして自分に与えられた仕事は必死に行ってきまた。それに関しては議員にも評価をしてもらい、昇給してもらったりなどしていただきました。ある種、事務所の歯車としてはそれなりに結果を出していた自負はありますが、今振り返ると、主体的にまたは自主的に行動ができていたのかというと正直胸を張って「はい!」とはいえないと思います。では何を主体的に自主的に動くべきだったのか?それは、昨年1年間課題として議員から指摘されていたことで「地元事務所が暗すぎる」ということ。これは地元を任されていた僕含めた秘書3人に向けられた課題でした。暗いというよりは明るさが足りなかった。政治家の地元事務所は地域の方からも見られているし、活動の時はボランティアの方も来てくださる。だからこそ事務所に大切なのは「来てよかった、楽しかった、また来たい」と思わせられる明るさがあるかということが何より大切だった。それは結果的には多くの人を巻き込めるだけの明るさとなって力になるから。多くの人に支えてもらわなければできないのが政治だからこそ、必要不可欠な要素でした。僕もそのことには気づいていたし、危機感も持っていたので、一度議員と話し合う機会がありその場で「明るさは大事だと思っていますが、それなら事務所の体制としてもっと意見の言いやすい環境にしてください、頭ごなしに何でもかんでも否定されてはやる気が下がります」ということを伝えました。これは僕が当時していた拡大解釈なのですが『意見を否定される→意見が言いにくい環境に→思考停止になりやる気が下がる→事務所の雰囲気が暗くなる』という解釈をしており、直属の上司は地元事務所の秘書だったこともあり、それなら事務所全体のボスに言えばこの状況は打開できると思っていました。

時が進めば進むほど議員からの「まだ事務所は暗い」「明るく」という注意は増えていった。ここで答え合わせをすると、この状況になっていることに関して僕に一切の責任がないかといえばそんなことはない。特にこの一件で注意を受けていたのは僕以外の秘書ふたりではあったものの、僕も秘書としてジョインしているのだからそれは、この状況を打開できない僕にも責任があるし、僕は環境が変わることを待ってしまっていたというのが答えだろう。それはプロフェッショナルではないし、一番の問題は僕だと思ったりもする。明るさが必要であると気づいているにも関らず他二人ができないなら「俺がやる」と先頭にたち旗を振るべきだった。しかしそれができないまま、環境が変わること、人が変わることを持ち続けた。一番罪深いのは僕自身だなと心の底から思います。そしてこれは後になって議員から伝えられたことですが「実は、彩斗自身が変わって事務所を引っ張っていてくれる存在になってくれると少しかけていたのが本音、一人にさせてすまなかった」と。期待に応えられなかった責任は僕にもあります。

そんな中、僕自身も情熱や志はあるけど、事務所全体の雰囲気が嫌になっていたいました。正直、昨年の夏以降はずっとそんな感じでした。それでもなぜ続けられたのか?もちろん、やりがいがあったというのが大きいですが、それ以外にも一人でできる業務も増えたこと、そして出した成果に対して期待も含め評価(昇給)を頂けていたことの3つが続けられた大きな要因です。

しかし、それが崩れる出来事がありました。ひとつは今年の春に統一地方選挙という大きな選挙があり、この時期は僕も毎日休まず事務所の業務にコミットしていました。この選挙で僕の勤めていた事務所の選挙区内で県議会議員選挙に出馬するのが2名、市議選に出馬するのが2名いました。選挙というものは選挙前から、政治活動と呼ばれる活動が大変重要になります。そのため、なるべく早めに候補者を決め活動をさせることが重要になります。前述した通り、候補者は問題なく揃えることができましたが、事務所にとって大変大きな問題が起きてしまいました。県議候補者1名、市議選候補者1名が事務所との方針や担当者とのズレなどが生じてしまい、何度か事務所側と候補者側で衝突してしまいました。県議候補者に関しては事務所の人間に対する罵詈雑言や事務所内の雰囲気を下げるような言動を皆に聞こえるように行うなど問題行動が多々ありました。僕としては、事務所の雰囲気を下げるような行動はやめていただきたかったし、戦いの前で毎日休まず働き心身ともに疲れている仲間に対して傷つけるような言動はどんな理由があろうと許されないと思います。そうしたこともあり、一度事務所のボスである議員と話し合い、今までの言動や行動を改めることを約束したのにも関わらず、結果的には変わりませんでした。

ふたつ目は統一地方選挙後、事務所の体制が変わり、より組織化することを目指し秘書人(公設秘書)も刷新されました。新しい秘書が入ってきたことで予算の使い方や活動の見直しなどが行われ「新しい事務所の体制になるまで選挙後はしばらくお休みで」と統一地方選挙の投開票日に告げられた。この間、事務所の新しい責任者、議員からも何の音沙汰もないまま、1ヶ月ほど経った頃に事務所の責任者である秘書と打ち合わせの機会があった。「事務所的には予算が足りず厳しい。正直今まで通りの給料は支払うことはできないかもしれない。いくらぐらいまでが最低ラインの金額かな?」というような話し合いで、腹を割って僕も話し、それから数日後の5月8日に議員と、これからについての話し合いがありました。内容としては「今までの評価」のようなものでした。そこでは端的に言うと「まだまだ求めているものには足りない」「他の世界をみた方がいい」ということを伝えられ、他の世界をみた方が良いというのは、ひとつ目とも共通するのですが過去に僕自身が営業の世界やビジネスに対する憧れを話していたことから「様々な仕事に触れ、一見華やかではなさそうな、泥臭い仕事を経験してみるといい、正直、彩斗が憧れている営業マンの方とでは雲泥の差があるし、今のままではなれないよ」という話でした。また「その目指しているビジネスパーソンの高い意識や所作、仕事の向き合い方などをこの事務所では教えられないと思う」という結論でもありました。

また前述した、県議候補者の件でその問題行動や言動に関して、僕は「あのような方とは関わりたくありません」と問題が起きたあたりの時に議員に直接話していました。それを議員は「冷めてる、問題がある」と感じたらしく、のちに議員との話し合いの時にも「あの時の発言は良くない」と言われ、理屈としては「政治はすべての人が対象になる、自分のことを応援していなくても、馬鹿など罵られてもそんな人でも助けなきゃと思わなければいけない、だから正直、今あの県議候補者が『全て間違ってました、ごめんなさい』と誤ってきたら許すと思う」ということなのですが、僕としては「それが有権者ならわかりますが政治家を志す者が仲間を気づけるような発言をしていいわけがない」という意思で発言したことを告げました。そこには理解は示していただけました。
この県議候補者と市会議員候補者の両者の公認(出馬を了解)したのは何を隠そう議員でした。政治の世界です。様々な思惑や力が働きます。議員だけの決定ではないにしてもご自身が連れてきた候補者で事務所の雰囲気が悪くなり、暗くなっているようでは本末転倒ではないか?というように不信感を抱くようにもなりました。

しかし、一連の話し合いの中で触れられなかったことがありました。給料に関してです。前述した通り、真面目に業務に取り組み出した成果や期待に対して昇給していただいていた給料に関して下げられる前提で新体制を迎えることは責任者側も僕もわかっていたことです。そこに関して何かしらの言葉があると思っていました。「すまないが頼む」という一言が……。しかしありませんでした。話し合いの中でいただいたのは前述した通りの内容だけでした。

また、減給に関しては僕だけの感覚かもしれませんが、大きな戦の後、休まず必死に奉公したにも関わらず「これからの報酬は下げるからな」と主君に言われているようなものでした。しかし、事務所が厳しいことは理解していたし、主君から一言あれば逆に奮起する場面でもあったと思いすが、現実は今までの評価もすべてなくなり、その中に配慮の欠片もない。この事務所にいることが馬鹿馬鹿しく思えてきたのが、もうひとつの本音です。

そうした状況を打開するべく、教育ベンチャー企業でインターンを始めました。6月のことです。ここでの経験や出会い、新しい仕事の新鮮さに触れ、次第にこんな思いも芽ばいてきました。「あ、俺、秘書向いてなかったんだ」ということ。明らかに事務所での秘書の顔と教育ベンチャーの時の顔は違うことに気づきました。そして、この約2年間、抱えていたものが「この環境だと情熱がフルで出せる。面白い。」と思えたこと。そして僕よりも明らかに優秀な同世代と上司の皆さん。その全てが新鮮で楽しい。

その反面、本当は事務所の雰囲気自体が合わなかった。上司も合わなかった。それでも続けていたのは「やりがい、一人で成果を出せる業務、それに対する評価」だった。評価もされないのに、元々合わない場所にいてもしょうがない。そう思いを募らせていきました。評価(減給)に関しては馬鹿にもされている気にもなった。そのタイミングでコーチングにも出会い「自分の本当にやりたいこと」は何なのか?今いる環境で達成できるのか?を問い続けました。その結果、国会議員秘書を退職することを決意しました。

終わりに

ここまで書いてきましたが、僕は決して元いた環境を悪く言いたい訳ではありませんし、環境が悪かったというつもりもありません。ただ言えることは環境が合わなかったということは言えると思います。その中で、評価を頂けているから無理して続けていましたが、その評価が崩れた瞬間に全てが崩れてしまいました。何を隠そう僕もまだまだ社会人として足りていない部分が多い。そして、事務所で出会ったすべての人は皆、素晴らしい人たちです。仕事を抜きにした個人としての人間関係はこれから続けていきたいですし、国会議員秘書として見せてもらった景色は20歳の大学生には本来、見えない景色だったと思います。そして何よりも秘書業務を通じて出会った地元の住民の方々やボランティアの皆さん、政治家の方々、そして事務所の皆さん。この出会いは一生ものだと思います。
本当に貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。

そして今後の橋本の活動に関しましては、まずは教育ベンチャー企業でのインターンです。この1ヶ月間の経験で感じたのは「コーチングの大切さ」です。ビジネスマンだけでなく、教育の世界にもコーチングが必要だと思い。今後はコーチングに関して学びを深めていきたいと思います。

また、ひとつ大きな事業なのですが、中学時代の同級生がバンドをやっておりそのバンドのマネージャーとなることになりました。まだインディーズで無名ではありますが今後バンドを世界で売っていきたいと思います!ご声援のほどよろしくお願い致します。

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