[青天を衝け]第16回感想|正義と哀しみ

栄一の故郷・血洗島(埼玉県深谷)の若者たちは、兄貴分の、栄一の従兄・尾高惇忠を筆頭に論語を学び、武芸を鍛えていた。

日頃の生活での、身分やお侍に対する小さな疑問、人伝や紙媒体などで得た情報をもとに幕府への不満を募らせ、激しく[尊皇攘夷]を掲げる志士たちに憧れ共感し共鳴する。

幕府は「無能」で何もしてくれないから自分たちで攘夷(外国追い出す説)を断行する!などと言って、よく知りもしない横浜の異人エリア焼き討ちをお国のためと信じ、激しい正義感により画策する。(結局計画は頓挫したが)

「国の未来のため命など惜しまない」という彼らの姿は熱を帯びていて、正義感に燃え、生きている!という実感に満ちていることだろう…と想像させる。彼らの生きている血洗島とその周辺のリアルな世界では、それは真実で、真剣で、正義なのだ。

この渋沢栄一の物語は、最後の将軍慶喜と出会うまでの間、慶喜の物語と並行して描かれた。

血洗島の熱い描写から場面一転、実際に国を動かし外国と差し向かい画策している幕府に視点が移ると、そこにいる人間それぞれの現実と思惑と情熱が見え、腐敗が見え隠れはするものの、果たして「無能」というひと言で断罪出来る話なのだろうか…と、俯瞰で見ている視聴者は感じることができる。幕府の対峙しているものは、複雑で難解だ。

命のやり取りがあるぶん物騒ではあるけれど、こういった状況は結局今も同じで、時代が変わっても人間の本質というものは永遠に変わらないのだろう。

いま、知り得た情報の世界のなかでは圧倒的正義たる事であっても、もしドラマのように物語を多角的に眺める目線を手に入れられるとしたら、そして全ての立場を理解できたとしたら、その正義はおそらく崩壊するだろう。

栄一は慶喜の部下である平岡円四郎と出会い、一橋家周辺の実情や、円四郎の武士としての思想を知ることで、ひとつ「俯瞰の目」を手に入れた。倒幕を唱えていた栄一は一転、一橋の家臣となる。世界は広い、と気づいたからだ。

しかしその俯瞰の目を持つ機会に恵まれなかった攘夷の仲間たちは、混乱する情勢のなか、自らの正義を全うするために命を投げ出して戦いに参加しようとする。お前に死んでほしくないという栄一の説得は、届かない。

栄一の若き仲間たちが攘夷のために、誰かを斬ろうと命を投げ出しても、ハチドリのひとしずくのように何も変わらないと、俯瞰ではわかる。それでも、本人の中では全うされた正義なのだ。そしてそれは、どんなに本人にとって正義であろうと、今の言葉で言えばテロでしかない。

圧倒的正義などこの世にひとつもないと思う。

それがすこぶる浮き彫りだったであろう混乱の幕末に、栄一が迷い悩みながら変わり身をしながら決断していくこの先を最後まで見届けたいと、昨夜心底思った。

栄一の恩人、平岡円四郎を斬った者たちも、自らの正義があっただろう。でも、あれはテロだった。

人が人を正義感によって斬る、その酷さと哀しさがこの物語では繰り返し表現される。

刀を使おうが使わまいが、人が人を正義感によって攻撃することの哀しさは、いまも同じだ。

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