日々の泡沫(9)――「お父さん、臭いからあっち行って!」問題と、「オイディプス王の悲劇」について。

本件には、様々な展開がある。
「お父さん、隣りに座らないで!」
「お父さん、先にお風呂入らないで!」
「お父さん、同じタオルで顔拭かないで!」
いずれも、「お父さん、臭いからあっち行って!」を抽象クラスとし、そこから現実界に顕現される様々な具体事例である。
※挙げようと思えばいくらでも事例は挙げられるのだが、世の中の「お父さん(娘さんを持つ)」をいたずらに傷つけるのは本意でなく、かつ本稿の主題でもないので、三つまでにとどめておきたい。

娘さんがこれを口にし始めたとき、いわゆる「思春期」が始まったことを、その親族は知ることになる。
思春期とは、雌雄の特徴(いわゆる性的二型)が明確に現れ出てくる時期であり、だからこれは、近親交配を回避するための適応進化(性淘汰の結果)である、と一般に理解されている。
この「臭い!」は、「ティンバーゲンの4つのなぜ」における「至近要因(どのように発達し機能するか?)」である。
また「近親交配の回避」は、同じく「究極要因(なぜそのように進化したのか?)」に対応する。
では、実際のところ、娘さんたちにとって、お父さんの、いったいなにが臭いのだろう? もっと言えば、娘さんたちの嗅覚は、いったいなにを根拠に、お父さんを「臭い!」と判断するのだろう?
すなわち、なにが「至近要因」と「究極要因」のあいだを繋ぐのか?

本稿では、この極めて重大なテーマを探ってみたいと思う。
※ちなみに、僕に娘はなく、息子が二人いる。高一と中一で、まさに思春期の只中にあるのだが、幸いにも息子なので、これに苦しめられる心配がない。だから、こんな考察を平気な顔で展開できるのだ、とも言える。

まず、そもそもこれは事実なのか?
確か二年ほど前だったかと思う。NHKが「ヒューマニエンス」という特集企画を組み、織田裕二さんが(なぜ彼だったのか思い返してみても未だに不明だが)メインパーソナリティを務める番組があった。
その中で、年頃の娘さんに、男が二日だか身に着けていた肌着の匂いを嗅がせるという、一部のフェチズムを刺激しそうな実験が放映された。吊るされた数枚の男くさい肌着の中に、被験者となった気の毒な娘さんの「親族」が身に着けていたものを混ぜておくのである。
実験の結果、その気の毒な娘さんたちは、企画サイドの思惑通り、複数枚の男くさい肌着の中から、「親族」が身に着けていたものを、「臭い!」と言って正確に示したのだった。
※今さらながら、ちょっと考えてみると、気の毒なのはもしかすると娘さんたちではなく、「臭い!」と言われた肌着を着ていた「親族の皆さん」のほうだったのではないか…とも思えてくる。

さて、問題は、この娘さんたちが「臭い!」と言った根拠(その源)は、いったいなんなのか?である。
もっとも科学的に聞こえる解は、「彼女らの嗅覚はDNA型の近似を嗅ぎ分けるのだ」という理屈であろう。
しかし、ヒトを含む直鼻猿類は、嗅覚依存から視覚依存へと、世界認識の手段を大きく変えてきた生き物である。匂いでDNA型を嗅ぎ分けるなど、とても可能だとは思えない。せいぜい食べ物が腐っているか否か、その程度しか判別できないのがヒトの鼻だ。
※僕などは「納豆」の匂いが腐臭にしか思えないので、それ(腐っているか否か)ですら危ういと言っていい。従って匂いに頼るのではなく、ひとまず誰かに食べさせてしばらく様子を見るというのが、最も確かな方法である。

では、そのように貧弱な嗅覚でも、確かに「親族」を嗅ぎ分けられるのだとすれば、それはいったいどのような機構に依るのだろう?
僕は、ここはやはり「脳」に期待すべきかと思うのである。
匂いは、諸感覚の中でも、「記憶」との結びつきが強いと言われる。
そうであれば、肌着の匂いは「或る記憶」と結びついて、それが、「臭い!」の根拠となっていると考えられないだろうか?

NHKの「ヒューマニエンス」が放映した実験では、複数枚の肌着の中に、被験者である気の毒な娘さんたちの、ちょっと違う意味でやはり気の毒な「親族」の肌着を紛れ込ませてあった。
つまり、その「肌着の集合」の中には、実験を企画した者にとっての「正解」が、予め含まれていた。到底これを科学的実験とは呼べないだろう。
今ここで僕が要求したところでどうにもならないことではあるが、もうひとつ、「生物学的な父親ではないが小さな頃から『お父さん』として接してきた人」が着けた肌着も、混ぜてみるべきだと思うのである。
そう、それが僕の主張する「或る記憶」だ。

幼馴染みは恋愛関係に移行し難いとか、許嫁は婚期が来るまで親しませてはいけないとか、実を言うと、これを裏付ける知見を、我々はけっこう蓄えてきている。
もし、ヒトの嗅覚がもはや「親族」を生物学的に嗅ぎ分けられなくなっているのであれば、社会的な関係性にその根拠を求めることで解決してきたのではないか?

図1

遺伝的近親者は、社会的近親者に、大半のケースで包含される。従って、社会的近親者を忌避すれば、大半のケースで、遺伝的近親者を排除することができる。
DNA型を嗅ぎ分けることはできなくても、幼い頃からずっとそばで暮らしてきた者の匂いを記憶することならできるだろう。
そして、そのように記憶されてきた匂いを、思春期になって取り出してきて「臭い!」と判断すれば、大半のケースで、近親交配を回避できるだろう。

NHKの「ヒューマニエンス」が放映した実験で、「遺伝的近親者」の肌着ではなく、「遺伝的他者である社会的近親者」の肌着を吊るしておいたとき、その「遺伝的他者であるお父さん」に育てられた娘さんは、やはり「臭い!」と言うのではなかろうか?
幼い頃から慣れ親しんできた匂いを忌避することで、ほぼほぼ、DNA型を嗅ぎ分けるのと同じ効果を得られるからである。

性別は違うけれど、オイディプスが長じて母と(母とは知らず)交わってしまったのは、生まれて間もないうちに切り離されたからであろう。
すなわち、オイディプスは生物学上の母を(むろん母も息子を)、社会的近親者として認識する(その匂いを「記憶」に刻む)機会を奪われてしまったのだ。
すでにDNA型を嗅ぎ分ける能力を失っているオイディプスは(母もまた)、長じて出会った女を(若者を)、「近親者」であると識別することができなかった。

「お父さん、臭いからあっち行って!」問題は、世界認識を嗅覚依存から視覚依存へと切り替えた我々が、近親者の識別を生物的手段から社会的手段へと切り替えた、人類史的背景を抱えている。「オイディプス王の悲劇」は、その隙間に於いて成立した。
人類の進化史やギリシャ神話と並べられることで、「お父さん、臭いからあっち行って!」問題の悲劇性は、いくらか慰められるかもしれない。
我々が腰痛に悩まされるのは、遠い祖先が二足歩行を始めてしまったせいである…と言われて、ちょっと諦めがつくように。(綾透)

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