【連載】随想録 第6回「上京して初めて知った庄内の魅力」 - ほぼ月刊「庄内わぐわぐ随想録」
高校卒業までは「何も無い」田舎だと思っていた酒田を飛び出して上京した少年が、38歳となる年に自らUターンし「わぐわぐ」が溢れる日々に至るまでのストーリー。今回は大学時代の話です。
酒田東高校を卒業し、一橋大学社会学部への入学とともに上京することに成功した私は、受験期を経ての反動と解放感からか、髪の毛を紫がかった灰色にして入学式に臨み、同じクラスの中では早速、「パープル」というありがたいあだ名を頂戴いたしました。
その後も髪をピンクにしたり両耳や唇の下にピアスを開けたりなど若気の至りを謳歌する毎日。気の合う同学年の仲間がいた「CHERISH」というダンスサークルに入ってロッキンのダンスを練習しておりました。
当時住んでいたのは、東京都北区にあった「荘内館(しょうないかん)」という学生寮。様々な大学や専門学校に通う、主に庄内出身の学生が住む歴史ある寮で、家賃は月1万2千円。酒田東高校陸上部の2学年上の先輩で、獨協大学の学生だった齋藤剛さんが住んでいた縁で入館しました。百年以上の歴史で偉大なる先輩も多数輩出している寮でしたが、私が入館した当時の「荘内館」は、控えめな表現で端的に言うと、優秀だった学生がだんだん学校に行かなくなって寮に入り浸り、夜な夜な行われる「現実逃避の宴」に溺れた駄目人間を次々と生み出してしまう「魔の巣窟」でした。それは、就職氷河期真っ只中の状況で数多くの寮生に退廃的ムードが蔓延していたことも一つの要因だったのかもしれません。
そのような先輩達のようにはなるまいと反面教師にして、私は一橋大の国立キャンパスまで片道約1時間をかけて電車で通い続けました。故郷から初めて離れての東京生活で新鮮さもありましたが、寮で庄内弁を共通言語としてしゃべりながらカップラーメンを食べる毎日の中で、親のありがたみと、庄内の素敵さを知ることになります。初めての夏休みに酒田に帰省した際に見た庄内平野や鳥海山の風景、そして「んめもの」が普通にたくさんある環境は、当たり前ではなく、スペシャルなものであるということに気づかされたのでした。
大学2年以降は、酒田東高校で仲が良かった同期や後輩などを次々と誘って入館させるとともに、寮のWebサイトを独学で立ち上げたりしながら「生産的な荘内館」を目指し、「魔の巣窟」からの脱却を図ったのでした。
当時、タワーレコード渋谷店の試聴機で出会った、NUMBER GIRL(ナンバーガール)というロックバンドにハマっていた私は、荘内館の学生達にも流行らせて一緒にライブに行くこともありました。ナンバーガールのヴォーカル・ギターである向井秀徳さんがライブ音源で放った「シブヤは炎上するか?シブヤは炎上するか?」というMCに感化され、酒東陸上部の1学年上の先輩でもある堀哲文さんとの共作で、寮のテーマソングとして「荘内は炎上するか?」という楽曲を作ることにもつながります。また、1学年上の寮生・清野邦明さん(羽黒高校出身)と一緒に、同バンドのライブ映像撮影のエキストラ募集に応募して見事当選し、当時溜池山王にあった東芝EMI本社で行われた撮影に参加しました。撮影が終わった後、エキストラの約30名は、打ち上げということで居酒屋にてタダ飯・タダ酒をご馳走になり、メンバーの皆さんともお話をすることができました。皆さん気さくにお話してくださり、特に田渕ひさ子さんはたまたま隣の席だったりして、ギターの話などで盛り上がり本当に楽しいひと時でした。打ち上げも含め、あの時代だったからこその、太っ腹な東芝EMI様さまとも言える体験でした。
この映像は、『騒やかな演奏』というDVD作品として、2001年6月20日に世に発表されました。「鉄風 鋭くなって」のライブ映像あたりでは、青いシャツを着て踊る私と、白いサッカーユニフォームの清野さんがばっちり映っております。Amazonでは中古盤が売っているようですので、ぜひ観ていただきたい作品です。
その後、私は、たまたまライブハウスに見に行ったライブで、他大卒の先輩たちによる「くぎバット」というミクスチャー・ハードコア・バンドがギターを募集していたので加入することになります。その「くぎバット」のメンバーと一緒に酒田の実家に泊まって遠征を行い、当時、酒田にあった「flavor」というライブハウス(酒田hopeの前身)でライブをやったこともありました。
一橋大学3年からは、社会学部で経営組織論の一條和生先生のゼミに入ります。ゼミ同期の蓮尾暁子(はすお・あきこ)さん(オランダ帰りの帰国子女で、通称「蘭子」)が、新潟出身の鈴木ナナ子さんと一緒に立ち上げた「劇団オカラ座」というミュージカル劇団が行った公演を見に行った時にとにかく感動と感銘を受けました。その後、オカラ座でオリジナルのロック・ミュージカルを作ろうという動きがあり、そこで作曲担当として白羽の矢が立ったのが、私と、社会学部の同期であった岡田健一君の2名でした。ある時、その劇団メンバーたちが荘内館に遊びに来る機会があり、鈴木ナナ子さんが、寮の学生達が繰り広げる庄内弁での会話が「ひとっつも」聴き取れず、「暗号のような秘密の言語みたいでかっこいい」と、後に庄内弁ドラマ「んめちゃ!」を監督・脚本・主演として制作することにつながるのです。ナナ子さんは大学卒業後、新卒で劇団四季に就職し裏方として働くことになりました。
さて、私の就職活動はというと、大学3年の後半から大学4年になる頃まで荘内館の先輩を反面教師にして真面目に取り組んだ結果、就職氷河期の壁に跳ね返されてかなり苦戦したものの、なんとか某都市銀行の内定を得ました。ただし、その内々定を頂く際に、先輩社員がいる前で黒電話で全ての選考過程の会社に断りを入れるという儀式があったことに納得が行かず、悶々とした日々を過ごします。10月の内定式まで出席したものの、その直後に荘内館の友人で酒東同期でもある齋藤宗大(むねひろ)君、池田学君、佐藤拓君と飲んだ際、「おめは、銀行員さ(性格的に)向いでねろ?それで、いあんが?」と詰問され、確かにその通りだと思って入行直前で内定を辞退し、自主留年することに相成ります。それを許してくれた両親には感謝しかございません。そして、ご迷惑をおかけした某都市銀行には頭が上がりません。大学5年目に突入して臨んだ2回目の就職活動は、さらに困難を極めましたが、某大手通信系の企業の子会社に内定し、新卒でその会社に入社することになりました。
次回(8月18日掲載予定)は、数えで25歳となる本厄の年に厄払いに行かなかった結果、大いなる災難に見舞われた1年でスタートした、東京での社会人時代についてつづります。
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