『RRR』と、「面白さ」について

突然ですが、『RRR』って映画、めちゃくちゃ面白いらしいですね。私はまだ見てないのですが、TLやネットの反応を見るとその人気具合と面白さがなんとなく伝わってきます。そして、RRRを見た私のリア友がこんな面白いことを言っていました。「RRRは、人が感じるよくできた作品だった。けど予想通りな『面白さ』だった」。

AI問題


私はまだ見ていないのでなんとも言えませんが、まあ斜に構えた捻くれた感想だと『RRR』を見た人なら思うでしょう。「素直に面白いって言えよ」と思う人もいると思います。私は彼のこの感想を聞いて思いました。「人が面白いと思う映画って理論的に作れるんじゃね?」。そして私の脳裏にはnovelAIやchatGPTといったAIが浮かびました。すでに絵や文章を生み出すAIが存在して、未だ不完全とはいえ、AIは人が「美しい」と感じるものを生み出すことができる。それはつまり、人の「美しい」「面白い」といった感性は計算可能であることを意味します。だから、美しい絵も、面白い小説も、面白い映画も、理論的に説明可能で計算可能なのではないでしょうか?

話は戻りますが、私のリア友は新海誠作品の『君の名は』については、「人にウケるものをよく理解している作品」と言っていました。もし仮に、人の感じる「面白さ」が完全に理論的に説明できるようになったとき、そのとき私たちが面白い映画や漫画と出会ったときのその作品は、映画監督やクリエイターの高い創造性と技術によって作られた面白い作品なのか。それとも、ただ人の感性を計算して作られた作品なのか。

人の感情は計算可能

精神医学を学ぶとわかるのですが、人の脳も感情も、どれだけ化学物質に左右されているのかがよくわかります。ギャンブルなどのスリルを楽しんでいるときはドーパミン的な興奮状態。怒っているときはアドレナリン的な興奮状態。人と楽しく雑談しているときはオキシトシン的な興奮状態。人の感情は化学物質と電気信号で説明できます。創作でも音楽を例にとると、特定のコード進行によって聞く人の感情を誘導することができます。曲を聴いてる人を切ない気分にさせたいならAのコード進行、高揚した気分にさせたいならBのコード進行、といったようにです。

私たちの「面白い」は誘導されたもの?

創作において、理論的に人の感情を誘導できるのであれば、そして、それがAIのように計算的で機械的に行うことができるようになれば、私たちは興奮しているのか、それとも興奮させられているのか。感動しているのか、感動させられているのか。自分の感情が自動詞的に動いているのか他動詞的に動いているのか。その判別は限りなく難しいでしょう。であるならば、『RRR』や『君の名は』といった作品は「一流の映画監督とクリエイター達によって作られたクオリティの高い面白い作品である」という作品賛美、クリエイター賛美も、「それらの作品は『面白さ』をよく理解している作品である」という評価もどちらも間違えていないように思えます。この2つの評価はレイヤーとか視点の違いでしかありません。ではどちらがより適切な作品評価であるのでしょうか。「真の作品評価」とは何なのか。「真の作品評価」とやらを考えると、「創作とはなにか」、「面白さとはなにか」という面倒な話をしなくてはなりません。人間の創作と、AIの創作のどちらが「真の創作」足り得るのか。「面白さ」、「創作」、これらはどこからやって来るのか。これは、宇宙の無いところからどうやって宇宙が生まれたのか、言語の無いところからどうやって言語が生まれたのか、という無から有がどうやって生まれたのかという話と同じくらい難解な議論です。

「面白さ」が「面白さ」足り得るには

カントは、人間の理性では「赤い林檎」が何であるか、「赤い林檎」の本質を認識することはできない、そのような「物自体」を認識することはできないと言いました。「面白さ自体」、「創作自体」、ロラン・バルトなら「面白さのエクリチュール」とか「創作のエクリチュール」と言うでしょう(「物自体」の話をするなら現象学の話もしないといけないけど私の能力的にパスで)。私たちがそのような「物自体」を認識できないのだとしたら、「面白さ」が何であるか、「創作」が何であるかということも認識できない。そして、何が適切な作品評価なのかも認識できないのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?