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言語として定義されるということ

とても久しぶりの投稿。

思えばなんだかバタバタしていて、こうやって自分の余白と向き合う書き物の時間がなかなかとれなかった。けれど、「あ、これを言葉にしておきたい」と思うことってたくさんあって。そんなときに小さな手帳と1本のペンを持っているといいなって改めて感じる。私たちの頭の中の容量は無限ではないし、やはりどこかで自分の思いを言語化しておきたい、というある種人間の本能のようなものがあるのかもしれない。

最近、よくこういった生地やニュースをよく目にする。

色々な自治体が「手話」を「言語として」位置づける「手話言語条例」を制定する流れがある。

補聴器や人工内耳といった「音をきくこと」を主たる目的とした歩調援助機器が日進月歩で進化する中、「手話」を母語とし、生きていくいわゆる「ろう文化」というのが見つめなおされているのかもしれない。

そんな中で私がふと思ったのは、そもそも言語を文章を以て定義する感覚ってあまりないな、ということである。

例えば、ゲール語はアイルランドで使用される少数言語のひとつである。しかし、これをわざわざ「ゲール語は言語です」と公言するだろうか?
日本の中で考えてみても、私は愛媛県に住んでいるので、日常的には「伊予弁」を使用する。
これもまた、ある特定のコミュニティにおいて使われる少数言語である。しかし、この伊予弁にわざわざ「伊予弁は言語です」なんて言ったりはしない。

調べてみると、カナダなどは少数言語の位置づけを明文化して保護しているようである。しかし、それは珍しい例である。

では、何が違うのか?

私が考えたのは、「それを使用する話者がある地域においてまとまったコミュニティを形成し、その中で頻用される」ということである。

多くの少数言語において、使用者の絶対的人数は少ないが、その人々はある特定の地域に固まっていることが想定できる。だからこそ、「ことば」としてそれは使われ続け、だからこそ何も言わずとも「これは言語である」という暗黙知をもって存在し続けることができるのだと思う。

では、手話を使用する人はどうだろうか?
手話は基本的にはきこえない世界に生きる人々の言語である。

しかし、手話を母語として生活する人はどこかに集中しているわけではない。1000人に一人の割合で生まれる聴覚障害者ではあるが、その程度はバラバラで聴覚障害を抱えて生まれてきた人のすべてが手話を母語とするわけではない。また、人生の途上で難聴となった人は、なおさらである。
そう考えると、手話を自らの母語として日常的に使用する人の数はかなり絞られる。しかも、その人々は様々な場所に点在しており、一つのまとまったコミュニティを形成してその土地の中に生きているとは考えにくい。

だからこそ、手話を言語として明文化する必要があると考えたのだろう。

なんでもそうだろうが、使用する者がなければそれは淘汰され消滅する。
仮に一人手話を母語とするものが残ったとしても、その人はほかの人と手話を以てコミュニケーションする機会を得ることはできない。
コミュニケーションの道具としての一面が満たされないために、目に見える形で使用されることはなくなり、言語として忘れ去られてしまう可能性は十分にある。

しかし、それが表面上のものでは意味がないと思うのだ。

「手話は言語である」それが条例として目に見える形になったこと自体は積極的な動きであることに違いはない。
ただ、それがゴールではないはずでもある。
次のステップとして、「手話は言語である」ことが一般的に認識されることが考えられるのではないか。

方言のようにその言葉で生きる人がいるのが自然なこと、「方言ていいね」と言えるくらい、「手話っていいね、そういう言葉もあるんだ、そういう表現をするんだ」と一つの文化との出会いの眼差しで存在していけることが、本質的に「手話は言語である」と明文化され、位置付けられた意味となるのではないだろうか。

日々、言語条例のニュースが増えていく中で、そんなように考える今日この頃である。

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