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生きるとはなんだろう−映画『桜桃の味』

『桜桃の味』

1997年 98min
原題 طعم گيلاس
英題 Taste of Cherry

 『トラベラー』、『友だちのうちはどこ?』を手がけたアッバース•キアロスタミ監督はこの作品でカンヌ映画祭の最高賞であるパルム•ドール賞を獲得した。その後も、他の映画祭においても数々の作品で受賞を遂げている。2016年7月享年76歳にして、彼の人生は幕を閉じた。

 今回この作品はアッバス・キアロスタミ ニューマスターBlu-ray BOXから鑑賞することができた。とても1990年代の作品とは思えないほどに画質がめちゃくちゃ綺麗でビックリしました。ビバブルーレイ。

アッバス・キアロスタミ ニューマスターBlu-ray BOXII

あらすじ

 中年男性バディは、ある目的のために車を走らせていた。何かを探すように、街中に必死に目を走らせる彼に、「人探しか?」「何人必要だ?」「仕事をくれ」と街の人は話しかける。バディは彼らに応えようとはしなかった。

 そして、彼は車を走らせ、一人でいる人達を見つけては車に乗るように勧め、穴のある木の側に車を止めて、ある仕事を持ちかける。

「簡単なことだ。私は今晩この穴の中に眠る。次の日の朝ここに来て声をかけて返事があれば起こしてくれ。返事がなければ土を20回ほどかけてくれ。」


つまり、自殺幇助である。この仕事を引き受けてくれたら20万をトランクから取り出してくれ、それが報酬だ、というのだ。(トゥマーンか、リヤルか、はたまた円なのか、、単位は分かりませんでした、ごめんなさい)
 中にひきいられたのは、クルド人男性の兵士、アフガン人男性の神学生、そして、最後に(おそらくイラン人の)お爺さんを仕事に誘った。悉く仕事を断られていたのだが、ただ一人お爺さんだけは、仕事を引き受ける。彼の子供を救うために。

↑クルド人兵士

↑アフガン人神学生 途中で出会った、休日に機械を一人見守るアフガン人の友人

↑おじいさん 博物館で働いている

 おじいさんは仕事を引き受けつつも、バディに語りかける。自分も死にたいと思っていたことがある、四季について、様々なことを語りかけ、最後彼の働く博物館まで送ってもらう。バディは約束をした彼にもう一度仕事内容を説明しろ、と言う。お爺さんは「引き受けるのは簡単だが、口に出すことは本当に辛いことなんだ」といいながらも、彼に従う。そして、ウズラが入った袋を抱えながら、お爺さんは仕事に向かうのだ。バディはそれを眺めていた。

↑博物館に入るお爺さん、いってらっしゃい

果たしてバディはその後どうなるのか。
お爺さんは約束を果たしてくれるのか!?
気になるラストシーンは本編でご確認ください。
あなたが思いもしない衝撃のラストが待ち受けています!!

感想※ネタバレあり※

私は98年生まれであり、この作品は97年のものである。つまり、私が生まれる前の作品なのだ。私が知るはずのない時代の、行ったこともない異国イランの情景が広がる作品『桜桃の味』に一瞬で引き込まれた。
最初にバディが街で車を走らせているシーンでは、多くの人がバディに仕事を求め、そして人々が労働に勤しむシーンも多くある。ここは労働地帯のようだ。バディが車を落車しかけた時、労働者の人達がすぐに駆け寄り、車を上げてくれた。

こんなに笑顔で!
「あんた、やっちゃったね〜」「ワシらが今助けてやるよ!」
と言わんばかりの笑顔だ。
生き生きとした彼らに、バディは申し訳なさそうにありがとう、と呟いて去った。

この映画には、生と死の対比が多くなされていると思う。
バディが車に乗せようとした人達は概して、一人でいる人達だった。(神学生は友人の元へ遊びに来ていたが、同じ場所にいなかったことから一人としていいと思う)おそらく、一人ぼっちのバディにとって、共通点となるのが一人でいることであったのではないか。また自殺幇助を頼む上で集団に頼むと面倒臭いことになりそうなことも考えられる。
兵士は僕の仕事じゃないといい、神学生はクルアーンに自殺は罪だと書かれているから考え直してといい、彼らは仕事を断った。
しかし、おじいさんだけは、まず彼の仕事を引き受け、それから説得を試みたのだ。
この場面は実はひとりぼっちのバディをまず受け入れたというように思えた。
バディは神学生の自殺は良くない、という説法には耳を貸さないどころか、「君の口は必要ない」とまで言い放ったにも関わらず、仕事を引き受けてくれたお爺さんの話は止めなかった。
お爺さんは子供の治療費のために。

自らのへと向かうバディの車は、毎日を一生懸命に働くの象徴である人々の間を行く。
バディと人々の間には決して埋まることのない大きなギャップがあった。

しかしお爺さんは、の場所にいながらもバディを受け入れた。お爺さんとバディの会話(というかお爺さんの一方的な話)により生と死のギャップがぐっと縮まった。お爺さんは自分も死のうとしたことがあり、一つの木の実に救われた話をした。お爺さんはの近くにいたことがあるということだ。バディはおじいさんの話にほぼ無反応であったが、最後におじいさんの元へ駆けつけ、「生きているかもしれないから、何度も石を投げてくれ、肩を揺すってくれ」こう頼む姿を見れば、お爺さんに心を開いていたことは確かだ。

結局バディは穴に入るのだが、この表情を見てほしい。明らかに、当初のバディとは違う。表情に少し暖かさを感じられる。衝撃のラストにより真相は分からないのであるが、この表情には明日生きるか死ぬかわからないが、少なくとも現状は満足している、つまり生を感じている表情だと思う。
雷鳴が響き、雨が降り始めた。どうか彼に明日がありますように、明日がなくとも彼が生きていてよかったと思いますように、、、。

「ふぁーーーー、どゆことどゆこと?!」
実際に私が口に出した言葉である。
いきなりメイキングシーンが始まり、あれ?自動で切り替わったのかな?あれ?皆生きてる?よかった!!のか?!と動揺したのも束の間、これが演出であることに気づいた。

最後の穴に入るバディ「死」とメイキングシーン「生」
先程まで劇中で生と死が近づき、ギャップが埋まりつつあったものが、最後に引き離してきた。

生と死、完全なる対比でありながら、近くにあるもの。生死をかなり身近なものに考えており、メイキングシーンにより我に帰った。『桜桃の味』は見れば見るほどその作品の中に誘われ、生死について考えるように仕掛けられていたのかもしれない。最後は自分が生きているということをハッとさせるためのメイキングシーンというメタ的展開であったと考える、ことにした!笑

見る人によって、また感じ方が変わってくるかと思います。ご覧になる機会が有れば是非ご鑑賞ください!!

以上、仇捌映画でした^^

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