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バリ島を旅して、人生の余白について考えた

2023年9月10日~15日まで、4泊6日でインドネシア・バリ島を旅してきました。20代半ばで東南アジアをバックパック旅行した経験のある私ですが、実はインドネシアは初めて訪れる国。「行ったことがない国に行ってみたい」という気持ちと、航空券の費用および現地で使うお金がほどほどの国…と考えて、思いついた旅先がバリ島だったのです。

トラベルライターとして旅記事を書いている私。招待されていくプレストリップ(取材旅行)では予定がみっちり詰まっているケースが多く、それはそれで楽しくてありがたいことではあるのですが、「なにもしないでぼんやり過ごす」という時間はほぼありません。

フリータイムがあっても、ネタになりそうな近場のスポットを探しに出かけてしまって、ただホテルでごろごろする……ということはなくて。

なので、今回は「あまりぎちぎちに予定を決めず、そのときの気分でのんびり過ごす旅にしよう」と決めて出かけた次第です。

ざっくりとした予定(4泊分のホテルと1日のカーチャーター)だけあらかじめ立てて予約しておき、それ以外はそのときの気分で街歩きしてもいいし、お部屋やプールでごろごろしてもいいし、好きにしよう、と思ったのです。

仕事柄、旅先では「ネタを集めなきゃ」「撮らなきゃ」という気持ちが先行しがちな私ですが、今回はそれを手放して、のんびり起きて夕方までベランダで読書したり、プールでぷかぷかしたりする時間を味わいました。

なんだか、これって20代バックパッカーのときに、その日起きてから「さて、今日はなにしよう」と決めていたのに似ていて、余白が多いからこそ、自分のそのときの気持ちに素直に従えるのかもしれません。

隙間を埋めるようにタスクを放り込んでいくと、「したいこと」ではなく「すべきこと」で埋め尽くされて言って、だんだん自分が何をしたいのかわからなくなってくる気がします。

もう少し深堀りすると、私は「余力があるのにタスクを入れないことに後ろめたさを感じる」のかもしれないし、隙間を埋めないことに不安を覚えていたのかもしれないな、と感じました。

東南アジアのゆるりとした空気感や、人々の大らかさ(予定通りにいかなくても当たり前、100%の意思疎通ができなくても普通)に触れ、「ぎちぎちに計画を立ててそれをこなせなくても別にいいのでは?」と思えたのです。

私は先月とある仕事を一つ手放しました。無理に手放さなくても、抱えておくことはできたかもしれません。もはや「やりたいこと」ではなくなっていたけれど、時間的・能力的に「できること」ではあったからです。

でも、40代も半ばを過ぎ、「今はしんどいけど将来のために我慢しよう」という考え方よりも、40代、50代、60代は地続きであることを実感し、今の自分のしたいことをちゃんと選び取るほうがよい気がしてきました。

それで、ある仕事を手放して、わずかに「もったいなかったかな」という気持ちも感じましたが、それ以上に開放感を得られました。過去のある時点では「できること」と「したいこと」が同じだったかもしれないけれど、年月とともにそれが乖離してくることもあります。

隙間がなくなるまでみっちりタスクを詰め込めば、当面の不安も軽減されるし、実際、収入にもつながるでしょう。忙しいと、妙なアドレナリンが出て高揚感を得られるのもまた事実なので。

でも、それをし過ぎると、自分が何をしたいのか、何を心地よい・楽しい・嬉しいと感じるのか、どんどんわからなくなっていきそうな気がします。

目に見える影響はすぐには出ないかもしれないけれど、「したいことではなく、できることをこなしていく」を続けると、少しずつ、少しずつ、自分のセンサーは鈍くなっていきそうで、私はそれが怖いのです。

自分にとって“よいもの”が入ってくるよう、意識的に「余白」を作ること。それに後ろめたさを持たなくてもよいこと。

バリ島の緑の木々の濃い香り、鳥のさえずり、ゲッコーの鳴き声、夜中に茅葺屋根を打つ雨の音、オレンジ色に染まる夕暮れの海、ひんやりした夜のプールに浮かんで見上げる星。バリヒンドゥー教のお線香の匂いや、客引きの呼び声、行きかうバイクの音、アジアらしい調味料の香り。

バリ島を旅して、普段よりも五感にたくさんの刺激を受け、異邦人としての気楽さを味わいつつ、そんなことを考えました。


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