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note毎日投稿する?

 なんとなく、自分に課してきたnoteの毎日投稿も100回を越えた。
 越えたら越えたで、365回にチャレンジしてみたいような、そうでもないような気がしている。
 一つは、一日の中にそんなに書くことはない気もするし、あると言えばある気もする。
 どっちが自分にとっていいことなんだろう。
 これもまたやってみないと分からない。
 どっちに振れるのが正しいのかピンとくる日がいつかくる。
 
 昔、保健室の素敵な先生が、
「毎日、原稿用紙3枚書けたら、作家になれるってテレビで言ってました」と教えてくれた。それは私が毎朝、モーニング・ページという日記を大学ノート3枚書いているっていう話をした時だったかもしれない。
 その日記は、「ずっとやりたかったことをやりなさい」(原題 The Artist's way  ジュリア・キャメロン著)という本で、毎朝、脳が自分をジャッジする前に(理性が働く前、ちょっとうすぼんやりしている時に)、大学ノート3枚、ただただなんでも書きなさいというものだった。面白いのは毎週、一週間ずつ、取り組むべき課題が出ること。
 例えば人に笑われなかったらやってみたい仕事を10個書きなさいとか、なかなか魅力的な課題が出るのだ。何も書きたいことが思いつかない時には、その課題をぱっとやってみるのがよかった。
 この課題はとても気楽に始まる。脳の排水を出してしまいなさいと。
 今日のご飯は何をつくろうとか、銀行に行ってお金をおろさなきゃとか思い浮かんだことをただただ書けと言われるのだ。大したことない誰に見せるのでもないこと。しかし、大学ノート3枚分も、どうでもいいことは書けない。大概、1ページ目の前半で、それは終わり、今日は3ページ埋めるの無理じゃないかと毎朝思っているのに、2ページ目の後半からペースが上がり、なぜか3ページ目は物凄い勢いでのりのりで書き終わるといったオモシロイことが毎朝起こるのだった。
 自分でも気づかぬ自分を発掘するインディ・ジョーンズみたいなもので、あら、私ってこういうことをしたいと思っていたのかと、眠っていた、または恥ずかしいと思って隠していた自分に出会えるのが面白かった。

 今、noteに書いているうちに、また、大学ノートに何か書きたくなってきた。キーボードをたたくのと、ペンと紙では、思い浮かぶことが違う気がするからだ。不思議だけど。

 今は、数年、モーニング・ページをさぼっている。
 同じようなことを毎朝、書いているのが嫌になって、パターンにはまってる!やめよ!と思ったのだ。

 それがブログに変わった。コロナ禍の時に、突然、3月が臨時休校になり、子供に会わない時間が、自分に押し寄せた。その時に、半分エッセイで半分小説の物語を104話、ほぼ、毎日投稿した。
 なぜ、104話かというと、夏目漱石の道草を読みかけていたのだが、それが104話までだったからだ。一応、文豪の真似をしたのである。

 やり終えたぞ、という達成感と、これからは何を書こうという気持ちと、両方あったが、シゴトの終わりに向けて、そのことも忘れかけるぐらい、慎重に、毎日を送ってきた。

 仕事を終えた今、自分を縛るものは何もないので、「note毎日投稿」ぐらいの軽い筋トレは続けたほうがいい気がしているのであった。

 しかも、筋肉が付くためには、ほんとうは、ちょっと負荷かけないとつかない。その負荷って何だろう?と考えていたら、今、負荷が不可と変換された笑。

 リラックス、のんびりして、守護霊のメッセージに耳を澄ませていく。

 昨日は友達が参加している絵画教室の展覧会を鑑賞してきた。

 刺激を受けようと思ってねw