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好きなお店を好きでい続けること

平日に休みがあるときは、好きなものを食べに行くためにランニングをすることがある。
電車やバスが通っていなくて不便だと思っていた場所でも、走れば簡単に辿り着くことができたりするのだ。
その日も私はK街まで、大好物の鮭のドリアを食べるためだけに走ることにした。

K街と目的のお店には、たくさんの思い出が詰まっている。

私が初めて勤めたのは、某百貨店だった。
学生時代に住みたいと思うほど好きだったその百貨店に就職することができ、これからどんな社会人生活が待っているのだろうと期待に胸を膨らませていた。しかし、入社式で私は本店ではなくK街にある支店に配属になることを知らされた。
社員になるということは、好きな店舗だけで働けるわけではないということを、学生時代の私はあまり理解していなかったのだ。今考えるとアホすぎるけれど、本店しか見えてなかったあの熱量があったから就職できたのも事実だ。

入社式には新入社員が100人近くいたけれど、配属先が発表になった後、約3割の人が真っ青な顔をしていた。私同様、本店に憧れて入社した人ばかりだということが一目で分かった。支店に配属になり、泣き出してしまう人もいた。
私も半べそをかきながら家に帰り、やり場のない悲しみと怒りを電話で友人に話し、ひとまず心を落ち着かせることにした。
「支店も案外良いかもよ〜」と言う友人の言葉を聞いて、言われてみればそうかもしれないなと思い、自分の目で配属された店舗を見に行くことにした。同じ百貨店なのだから、きっと素敵に違いない。
電車に乗り約10分。駅を降り、慣れない道を歩き、私が目にしたのは本店と同じ百貨店だとは思えない、とても小さくて古いお店だった。
こんな言い方をしたら申し訳ないのだけれど、まるでスーパーの2階の洋服コーナーのような、自分の欲しいものを探す方が難しそうなこの店舗で、どうやって楽しく働けば良いのだろうか。働く前からそんなことを考えていた。
そんな最悪な印象の職場だったけれど、働き始めて早々に、とても楽しみな時間ができたのだ。それはお昼ご飯の休憩時間だった。

K街にある支店はとても小さく、同じ百貨店の中でも唯一社食が存在していない店舗だった。
社食がない代わりに、1日300円の補助金が支給されていたので、そのお金を足しにして、先輩たちはお昼休みになると毎日のように美味しいランチを食べに外へ出掛けて行ったのだ。
K街にはカフェや洋食屋などが驚くほどたくさん存在しており、とにかくお昼ご飯は選び放題だった。
山のようにお店があるというに先輩たちが食べに行くのは決まった5店舗であることが多く、どの先輩と食べに行っても大体同じお店に行くことになった。さすがに飽きるんじゃないかと心配していたけれどそんなことは全くなくて、食べ続けたいと思える味のお店が、共通していただけのようだった。
お昼休みになると自分の部署だけでなく、同じ制服を着た人でいっぱいになるこれらのお店は、まるで社食と化していた。

選ばれし5店舗の中でも私が特に好きだったのは、パスタとドリアを売りにしている洋食屋さんだ。オーナーシェフは魔女のようなママさんで、大体機嫌が悪くてビクビクしながらお店にも入るのだけれど、そこの鮭のドリアを食べるとあまりの美味しさに幸せな気持ちになり、帰る頃には魔女が女神に見えるから不思議だった。お店はいつも満席で、とても繁盛していた。アイスコーヒーも一杯ずつ丁寧に淹れたもので、濃ゆくて苦いここのアイスコーヒーが大好きだった。食事の前に持ってきてもらい、一緒に出される生クリームとシロップを入れてちびちびと少しずつ飲み、氷でだんだん薄まって丁度良い濃さになる頃に食事を食べ終え、そこからまたアイスコーヒーを飲むのがとても好きだった。私がコーヒーを飲めるようになったのはここのアイスコーヒーに出会ったからだ。
このお店には約8年ほど通い、たぶん100食以上は余裕で食べていると思う。
私はこのお店のおかげで、支店勤務初期の辛い時期を乗り越えられた。美味しいものは人を笑顔に、そして元気にさせるのだ。

後に私が働いていた支店がK街から撤退することになるのだけれど、その少し前に私は念願の本店に異動していたので、社食状態だったあの界隈のお店がその後どうなったは全く分からず、わざわざK街に行くことも無くなり、気付いたら10年近く経っていた。
約10年ぶりに食べに行ったのは2018年の春だった。行かない間に随分と歳をとったお店と店主だったが、変わらぬ味が私を迎えてくれた。

*****

あれから4年経ったある日、突然あのお店の味が恋しくなり、仕事が休みの平日に自宅から約7キロ走って、鮭のドリアを食べに行くことにした。

K街に到着したのは午前11時30分。お昼ご飯を食べるのにちょうど良い時間だった。
2018年から4年ぶりの食事にドキドキする気持ちとランニングで乱れた呼吸を整えながら、細い道に入っていく。目の前には変わらぬ位置に変わらぬお店の看板が立っていた。
看板の横にある階段を下りると左側に店の入り口がある。
中を覗くと、かつてこの建物の2階でパスタのお店を経営していたご主人が厨房で調理をしていた。魔女のようなオーナーシェフだったママは、ホールの仕事をしていた。数人いたアルバイトの若い子たちはおらず、夫婦2人でお店を回していた。

店の中に客は1組しかいないのに、なんだか慌ただしくしているママ。「すみませーん!座っていいですか?」私が大きな声で尋ねると、無表情のまま席に案内してくれた。相変わらずちょっと怖い魔女のようだった。
ママがメニューを持ってくる前に、私は注文をした。
「鮭のドリアで、アイスコーヒーを先にください。」
メニューを見ずに注文することで、私のことを少しは思い出してくれるかな?と期待したけれど、全く覚えていない様子だった。
少しするとアイスコーヒーがテーブルに置かれた。随分と早い到着に驚いた。
アイスコーヒーはどんなに早く頼んでもドリップするのに時間がかかるため、大抵セットのサラダの後に来ていた。これは作り置きしていたのだろうか、そんなことを考えながらアイスコーヒーを口の中に含んだ。
すると、あまりのショックに頭の中が真っ白になった。私の舌が変わったとか、豆の味が変わったとか、そんな問題ではない。あんなに好きで飲み続けたアイスコーヒーの味が、その辺のパックで売られているアイスコーヒーに変わっていたことにすぐ気が付いた。
店内にある冷蔵庫を見ると、大量のアイスコーヒーのパックが収納されていた。間違いなかった。
ガッカリしていると、私の目の前にはセットのサラダが置かれた。
サラダを食べるのが少し怖くなっていた。もう裏切られたくない、そんな想いがどんどん強くなっていった。
この店のドレッシングの量は昔から野菜に対して微妙に少ない。野菜をどんなバランスで食べようかとその日も真剣に考えていた。
頭の中でブツブツと独り言を言い続けながらサラダを口に運ぶと、さっきまでの悲しみが消えて、パーッと目の前が明るくなった。
酸味と甘みが絶妙な、ここでしか味わうことのできない手作りのトマトドレッシングがかかったサラダが、私の気持ちを落ち着かせてくれたのだ。
あぁ、これだこれだ。この味だ。ドレッシングは変わってなかった。安心して、やっと私は笑顔になった。

しばらくすると、メインである熱々のドリアが私の元へとやってきた。
うわぁ〜待ってました!ホフホフ言いながら食べるぞー!少し緊張しながらドリアを口に入れた。変わらぬこってりとした濃厚なホワイトソースと鮭のピラフの味のバランスが本当に素晴らしく、とても感動した。どこのホワイトソースを食べても、やっぱりここのホワイトソースが1番美味しいと感じる。パスタも凄く美味しいのだけれど、久しぶりに食べるならまずはこのドリアなのだ。
この味が健在だったことが確認できて良かった。そう思いながら完食し、支払いを済ませてお店を出た。

少し街をぶらぶらしながらお腹を落ち着かせ、再び私はランニングをしながら家へと向かった。
走りながらずっと考えていたのは、あのお店のことだった。
私が足を運ばなかったこの4年の間には新型コロナウィルスの影響で、たくさんの飲食店が大きな被害を受けてきた。きっとこのお店もそうだったはずだ。
値段を変えず、なんとかお店を立て直そうとした結果が、ランチタイムのあのアイスコーヒーだったのかもしれない。
なかなかの高齢だというのに、ほぼ無休でお店に立ち続け、同じクオリティの料理を提供し続けるのは、本当に大変なことだと思う。
もっと休めば良いのに、とか、もっと値上げすれば良いのに、とか、そんなことを軽く言えたもんじゃないことも、私の実家がパン屋を経営していたからよく分かる。
アイスコーヒーにガッカリしたことは事実だけど、たまに気が向いたときにふらっと行けば、お店は相変わらず開いていて、自分では絶対に真似できない、他では食べることのできないホワイトソースやドレッシングやピラフの味を口にすることができる。それは、当たり前のことではなくて、本当に感謝すべきことなんだと感じた。
ある日突然閉店して、食べることができなくなったお店を幾つも知っている。
だから、このお店を続けてくれているこの夫婦には、本当に感謝しなければならない。
変わったことに不満を言うのは簡単だけど、時代と共に人も環境も少しずつ変わっていくものだ。
客である自分も働く場所が変わって、毎週のように通うことはなくなった。ランチセットのアイスコーヒーが市販のパックのものに変わっても、そもそも私が文句を言う権利などないのだ。
環境や状況が変わる中でも変わらないものを、きちんと大切にしてくれている、それだけでも私はこの店に来る価値があるのだと思った。

****

今度はディナータイムにあのお店に食べに行って、料理と一緒にアイスコーヒーも注文してみようと思う。もしかすると単品のアイスコーヒーは、パックのコーヒーでは無いのかもしれないと思ったからだ。
諦めきれないのは、私の性格の問題だ。もしも願っているアイスコーヒーが出てこなかったとしても、お店は全く悪くないのだ。

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