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駅のそば、私のそば

この駅は一体何なのだ。
電車を降りて改札に向かう階段で、ほわんと良い匂いがしてきた。駅の階段でこんなにも私を誘惑できるなんて、ナンパ師も見習いたくなるような手口だろう。そしてこれは、確実にあの匂いだ。

平日午前10時の新橋駅で、私はとても興奮していた。その匂いは改札に向かうにつれてだんだんと強くなる。急いで改札を出ると、想像通りの店があった。
立ち食い蕎麦屋である。

「うまい、安い、早い」と呼ばれる立ち食い蕎麦屋は、時間のないサラリーマンたちの救世主でもあり、都内では多くの駅構内や駅前に存在する。 
そしてここ新橋駅は、サラリーマンの聖地であり、駅周辺には何軒もの立ち食い蕎麦屋があるのだ。

匂いにつられて改札前の立ち食い蕎麦屋に入りたいところではあるが、そこはグッと堪えて目的の場所へと急ぐ。
初めて降りた右も左も分からない新橋駅で、私はスマホを片手にGoogleMapsを確認しながら約5分ほど彷徨う。そして到着したそのお店は今にも取り壊されそうなくらい古びたビルの1階にあった。 
店の扉を開けると、新橋駅で浴びたあの匂いが再び私を包み込んだ。
辿り着いたお店は、ズバリ立ち食い蕎麦屋である。私はこの日、この店を訪れるためだけに新橋駅に来たのだ。

店内に入り、私は事前にリサーチして決めていた明日葉の天ぷらと温かい蕎麦を注文した。カウンター越しには、ネットの口コミで書かれていたこの店の名物ともいえるインドカレーを仕込んでいるのが見える。実に美味しそうだが、販売時間前なのでこの日は食べることができなかった。
代わりにコロッケを追加して、この日も蕎麦に対してトッピングの量が多すぎて蕎麦が足りなくなるという失敗を犯す。
さらには、蕎麦つゆに溶けたコロッケを食べ尽くしたいという意地汚い私の根性のせいで、つゆを全て飲み干してしまった。
総カロリーと塩分について考えると恐ろしい。けれども、罪悪感以上に満足感でいっぱいになった私は、次回この店に来たときのことを考えながら帰る。
左にいたお客さんは、春菊天蕎麦、右にいたお客さんはコロッケ蕎麦、その隣のお客さんは春菊天蕎麦を食べていた。

私は立ち食い蕎麦が大好きだ。
立ち食い蕎麦という文化も好きだし、もちろん蕎麦もトッピングのちょっと安っぽい揚げ物も好きだ。
そして、立ち食い蕎麦屋での人との距離感も好きだし、立ち食い蕎麦マニア達がSNSに投稿する画像やつぶやきも好きだ。
そう、立ち食い蕎麦には、私の好きがたくさん詰まっている。

私をこの世界に引き込ませたきっかけは、車で東京から鎌倉へ向かう途中に寄った、港北パーキングエリアにある蕎麦屋だった。
大きなサービスエリアとは違い、必要最低限しか食事処がないパーキングエリアで、何を食べるか迷っていた。無難に蕎麦にしようと思い蕎麦のメニュー表を眺めていると、コロッケ蕎麦というものがあることに気が付いた。
蕎麦+コロッケという炭水化物豊富な意味の分からない組み合わせを初めてみたときに、絶対に無しでしょ!と選択肢から真っ先に消去していたのだけれど、気になるワードが次々に、私の耳へと飛び込んできた。
「この味変を味合わずにいられる?」「ここのコロッケはどんな味付けだろう。今日もお蕎麦がすすんじゃうな!」
私の近くの券売機に並んでいるカップルが、やたらとコロッケ蕎麦の美味しさを語っている。
味変?コロッケで蕎麦がすすむ?
数秒後、券売機の前に立った私は「コロッケ蕎麦」のボタンを押していた。
そして券を手にしたときの後悔は、約5分後には跡形もなく消え去っていた。

蕎麦屋選びに欠かせないのが、偶然の出会いと立ち食い蕎麦マニアたちのSNSの投稿だ。私のように蕎麦屋に頻繁に通えない者にとって、彼らの投稿が貴重な情報源となる。彼らは立ち食い蕎麦をTGSと略し、日々食べた蕎麦や店の特徴、その店でのオススメの食べ方、店員さんや常連客のことなど、通わなければ知り得ない知識を投稿している。
私は朝の通勤時間に、たいてい彼らの投稿を見ている。美味しそうな蕎麦の画像がズラリと並ぶスマホの画面は、これから仕事に行くということを忘れさせてくれる。さらに、立ち食い蕎麦屋に若い女性客がいるとなぜか今日は良い日になると思い込んでいるマニアのつぶやきや、トッピング3点盛りに挑戦して得意げな様子だったのに、数分後胃もたれを起こして悶えているつぶやきを読みながら、一生会うこともないけれど勝手に師匠にしているマニアたちの心の中をそっと覗き見てはニヤリとする。
蕎麦を食べるあの数分の中に、様々な感情が生まれるのだと思うと、とても面白い。

私が今1番好きなトッピングは、もちろんコロッケだ。初めて食べたコロッケ蕎麦の味が忘れられない。

サクサクだったコロッケが、つゆの中で少しずつ溶け、コロッケとつゆが混ざり合っていく。その味の変化の面白さと美味しさは、あのパーキングエリアで教えてもらった。それ以降、コロッケ蕎麦を探して蕎麦屋に入ったりしたのだけれど、普通の蕎麦屋にはコロッケのトッピングは無い。コロッケが置いてあるのは大抵立ち食い蕎麦屋だということを知ってから、立ち食い蕎麦屋に行くようになった。そして数回通うと、立ち食い蕎麦の魅力に取り憑かれていった。

次に好きなトッピングは春菊天だ。これもマニアたちの投稿が強く影響しているが、一度食べたらやめられなくなる悪魔のトッピングだ。春菊の香りと揚げても若干残るえぐみがとても蕎麦やつゆとよく合うのだ。そして後味の良さも抜群だ。
同じ春菊天でも、かじるとまるで粉雪が舞うような美しい衣の春菊天が登場するお店があったり、サクサクしないのになぜか美味しいほわほわ系を提供するお店もあったりと、知れば知るほど驚きと新発見の連続で、胃も心もとても満足する。

こんな風に、立ち食い蕎麦は飽きることなく楽しむことができる。

立ち食い蕎麦屋の滞在時間はとても短い。私の平均滞在時間も約10分前後だ。客は基本的に皆1人で来ており、複数人で来ていたとしても、あまり会話はない。しかし、店内に客が誰もいないと、なんとなく不安や孤独を感じるし落ち着かない。
他に1人でも客の存在が確認できると妙に安心できて、心地が良くなる。もちろん会話はしないし、目を合わせることもない。けれども聞こえてくる蕎麦を啜る音、視界にチラつくその人の個性とも言えるトッピングが乗った蕎麦。それらが自然と私を落ち着かせてくれるのだ。
職場や学校でもなく、友人とも違う、特に繋がり合うわけでもない人との関わりは、世間のしがらみからも解放させてくれる。

自分のお気に入りの空間に、自分の好きな食べ物があるというのは、とても幸せなことだ。
好きなカフェで好きなマフィンとコーヒーをいただきながらまったりしている人もいるだろうし、心地よいと思える場所や食の好みは人それぞれだ。私はこうやって立ち食い蕎麦屋という自分のお気に入りの場所を見つけることができたことがとても嬉しく思っている。

約10キロのランニングを終え、ランニングウエアのまま店内に入る。背中には大きなリュックを背負っているけれど、立って食べるのでこのままで大丈夫だ。
カウンター越しに春菊天蕎麦を注文し、現金を手渡す。
走って流れた汗に重なるように、再び額から汗が流れる。
今日は走ってカロリーを消費した分トッピングを増やしても問題ないだろうと、コロッケを追加する。
春菊天蕎麦に追加きれたコロッケを見て、とても悪いことをしている子供のような顔で蕎麦を啜る。
蕎麦に好きなトッピングを乗せるように、今日も休日に立ち食い蕎麦を加える。

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