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「時」待つエッセイたち

昨日、眠る前の高揚するテンションのまま、一つのエッセイを書いた。

かれこれもう10年以上持ち続けている目標や決意についての記事だ。
これからの働き方、今の心情、原点、哲学、そして私の生き方。
ありのまま、思うままに書いた。

少々乱雑ではあったが、書き終えた時、これが私の書きたかった文章だと思えた。

「明日、この記事を出そう」

決意にも似た心意気。心血注いだ記事だった。

***

朝起きて再度読んで気づく。これは今出すべき記事ではない。

よく夜中に書いたラブレターは翌朝読んでから出すと良いといったものだが、これはそういった類のものとはニュアンスがすこし違う。

エッセイ、特に自分の感情について書き記した手記というものは、「出すべき時」があると私は思う。

松下幸之助も「時」について言及している。

サイト上にも彼の名著の文章が引用されているが、改めて抜粋して紹介したい。

 わるい時がすぎれば、よい時は必ず来る。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。だが何もせずに待つことは僥倖(ぎょうこう)を待つに等しい。静かに春を待つ姿は、一瞬の休みもなく力をたくわえている。たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。
 時を得ぬ人は静かに待つがよい。大自然の恵みを心から信じ、時の来るを信じて、着々とわが力をたくわえるがよい。着々とわが力をたくわえる人には、時は必ず来る。時期は必ず来る。
            (「道をひらく」PHP研究所刊より)

なんと力強い言葉であろうか。
今は我が力を蓄え、冬の過ぎ去るのを待ち、鍛錬する時であると思わされる。

「時」を間違えてはならない。
「時」は大切だ。
その「時」を見定められる人こそ、生き残れるのかもしれない。

***

実をいうと、私のnoteの下書きには、書き終えたまま公開していない記事が複数ある。

単純に面白くないと感じたもの、文章が丁寧ではないもの、手を加えたらもっとよくなると感じたもの、そして「今ではない」と判断したもの。

正直、この「時」をとらえられているかどうかについて、自分がしっかりと見極められているか、自信がないのも事実だ。中には寝かせずスピード感を持って出すべき記事もあったかもしれない。

だけど、この記事だけは。

昨日書いたこの記事だけは、はっきりとわかる。

「今ではない」と。

***

私がいつの日か、この記事に見合う人間になれたら、結果を残せたら、胸を張ってこの記事をみてほしいと言えるようになったら。

その日が来るまではどうあがいても「時ではない」のだ。

今は悔しい。まだまだスタート地点にも立てていない気がする。
一生この記事を出せないかもしれないと思い悩む夜もあるかもしれない。

でも絶対にやり遂げなければならない。
それは決意であり、過去の自分への誓い。

何もできなかった、幼き日の私との約束。

***

私には、私の生きる軸がある。
そのことについては、まだまだ書くことすらできない。

書けるだけの人間になるまでに、一体私はどれほどの努力をしていけばいいのか見当もつかないが、この軸があるから私は今ここにいられる。頑張れる。

時を待とう。
いつの日か、この原点について書けると信じて。
今を懸命に生きる中に答えは見つかる。

だから私は今日も文章を書いていく。

誰のためでもない、過去と現在と未来の私のために。

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