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熊本・菊池電車の母

18歳で熊本から上京して、48歳になろうとする今、私は東京都下で地域情報誌を発行をする仕事をしている。子育てをしながらフリーライターとして活動し、子どもが小学生のときに情報誌を立ち上げ、中学生になるころに会社をつくり、6期目だ。

今も両親の住む熊本には、年に1、2回帰省する。合志市の実家まで、5、6時間の移動時間になる。

阿蘇くまもと空港からの帰路

数年前までは、車で父母そろって空港へ迎えに来ていた。最近、父は眼底出血で右目の視力がほとんどなくなり、運転しなくなった。母は50歳の時に免許を取って、天草まで自分で運転してカモメにエサをやりにいくなど車移動を楽しんでいたが、事故にあってから怖くなったようで免許を返納してしまった。

それで、直結する鉄道のない阿蘇くまもと空港から、全道程を自力で帰ることになった。最近は空港から最寄り駅、肥後大津駅まで無料のシャトルバス運行が始まって、だいぶ楽になったが、駅まで20分ほどかかる。

羽田空港の近代的なビルから飛行機に乗って空を飛び、阿蘇くまもと空港に降り立ち、田舎らしい簡素なビルから出ると、突然遮るもののない青空、湧き上がる雲、その下に裾野の広大な阿蘇の山々が熱気たっぷりの阿蘇の景色が広がり、よく知っている場所ながら、初めて来るような新鮮さを味わう。

シャトルバスに乗って、標高の高い場所にある空港から鬱蒼とした山を駆け下りると、道の左右にどこまでも畑と山が広がる。

閉鎖と開放が、交互にやってきて開放の快感がより強くなる。

空港と鉄道

肥後大津駅に着くと「阿蘇くまもと空港駅」と書いてあって、空港から車で20分かかるのに!とツッコミを入れつつ、これまたここ数年でICカード化した改札を通る。

東京のような自動改札ではなく、小さい公衆電話のような機械が設置されていて、入場するときと退場するときはタッチする機械が違う。自動化されたとはいえ、新たに田舎の新鮮さを感じる部分だ。

大きな窓のJR豊肥線に乗り込み、阿蘇から離れ熊本市街へ近づいていくにしても、外にはまだまだ空と田畑が広がる。「帰ってきたなあ」と思いながら、JR武蔵塚駅に着く。高校生のとき、通学に使っていた駅で、出身校の学生服を着た女の子たちを見ると、自分が高校生のころを思い出す。夏は、白いセーラー服。今も変わっていない。

駅を出ると、畑と、コンビニ。コンビニは昔はなかったが、畑は未だある。高校生のときはレンゲ畑で、レンゲに見とれて自転車ごと畑に落っこちたことを毎回思い出し、「のどかだったな」と思う。

武蔵塚駅の近くにあるタクシー会社に電話すると、すぐに車を回してくれる。古い会社で、運転手も高齢のようなのだが、システムも高齢というか、ナビがついていないので「合志市の、スポーツセンターなんですけど、九州自動車道沿いを下って、最初の信号を抜けてすぐ、左のトンネルに入って…」と説明する。こんなやりとりもノスタルジックで面白い。

「どっから来なさったですか」
「東京です」
「そら遠かですねえ」

と、熊本弁で会話すると、じわじわまた、自分が地元に溶け込んでいく気がする。

ちなみに、上の「東京です」は、字にすると標準語と同じだが、熊本弁の「↘東↗京↘です」とイントネーションが違う。

こうして武蔵塚駅からタクシーで実家につくと、白い壁に赤い屋根の、いつも懐かしい家に着き、父母と、犬のチョビが出迎えてくれる。


ところで、先ほど阿蘇熊本空港が「田舎らしい簡素なビル」だと書いたのだが、それはここ数年の話。2016年の熊本地震で建屋が大きな被害にあい、立て替えのために仮建屋になったから「簡素」だったが、4月に新ビルが誕生して今はかなり近代的らしい。新空港になってからは、まだ帰省できていない。そして2030年に、阿蘇熊本空港からJRの駅まで鉄道敷設の計画がある。

地域住民にとって鉄道は生活にも商業にも大きく関わる問題で、鉄道敷設を要望する地域は多いが、実現するかどうかは自治体の予算や長による。計画はあるが、なかなか実現しないことは多い。しかし、阿蘇くまもと空港の場合は、台湾の半導体会社TSMCが菊陽町に工場を建設して2024年に運営を開始する予定だ。空港直結の鉄道敷設が現実味を帯びてきたのではないか。直結する駅ができると、帰省の移動はまたかなり楽になるだろう。

家族と菊池電車

こうして阿蘇くまも空港からの、電車を含めた移動というのは実家とのつながりの中で大きなテーマなのだが、もう一つ、テーマというか私が思う、母の黄金時代を築いた、熊本電気鉄道。開通は大正二年。第一次世界大戦をきっかけとした好景気で鉄道が全国に発展しはじめた時期に生まれ、今も菊池方面と熊本市街を結ぶ重要な交通だ。通称菊池電車、私たちは菊電と呼んでいた。

父、母、弟、私の4人家族は、私たちが幼いころは菊池郡菊陽町の団地に住んでいて、私が高校生になるときに、合志市の建て売り住宅を買い、引っ越した。父母は今もここに住んでいる。

その合志市の家から、菊電の須屋駅が近く通勤に便利だったこともあり、母は菊電の終着駅、藤崎宮前駅で売店の売り子のパートを始めた。1990年ごろのことだ。

母は幼いころにポリオにかかったせいで、見た目にはほとんどわからないが右手足に軽い障害があり体があまり強くないので、それまで、あまり働いたことがなかった。思うように進学もできなかった。思い切って菊電のパート募集に応募してみて、「きっと不採用だろう」と思っていたら採用の連絡が来て、「合格した」というのが、とてもうれしかったのだそうだ。

菊電は自転車を乗せられること、東京で走っていた目蒲線の払い下げ電車が走っていることなどで、熊本の鉄道ファンに人気の電車だ。

菊電の駅は多くが無人駅だが、始発の御代志駅から熊本城や県庁のある市街地、繁華街に近い藤崎宮前駅と、南熊本駅への分岐点である北熊本駅には売店があって、母のような売り子が定期券や記念切符などを販売していた。

藤崎宮前駅の人気おばちゃん

朝番の日は、始発電車が執着駅の藤崎宮前駅に到着する前、6時40分に出勤する。藤崎宮前駅までは、菊電より始発時間が早いバスだ。早番の日のバスは、同じ時間に出勤する朝が早い仕事、ホテルの清掃などの仕事をする人と一緒になり、バス停で友だちになったのだそうだ。

「空が朝焼けで、カラスの群れが飛んどったのが、いくつかの群れにわかれて、それぞれ飛んでいってね。どこの餌場がどこの班、と決まっとるのかなあ、とか思いながら通っとったよ」と母は言う。

バスを降り、藤崎宮前駅に着くと、更衣室でピンクのベストとスカート、シャツの制服に着替え、売店を開けて改札に立つ。売店で定期券や回数券を販売する準備をしてから、7時から10時まで改札に立つのが早番パートの大仕事だった。

菊電の始発は6時26分に始発の御代志駅を出て、6時52分に藤崎宮前駅へ着くのだが、6時57分に御代志駅駅へ折り返し運転をするため、運転士の準備時間は5分しかない。朝は1便につき200人ほどの乗客が降りてくる。10時までは20分おきに電車が到着する。

菊電の駅は北熊本駅と藤崎宮前駅を除いて無人のため、運賃は運転席の脇にある運賃箱に入れる。整理券の番号と運賃を確認するのは運転士の役割なのだが、朝のラッシュ時間に乗客が小銭を出すのに手間取っていたり、「堀川駅からはいくらですか」などと質問されたりしていれば、折り返し運転の出発時刻が過ぎてしまう。

そのため売店の朝番に当たる店員が改札に立ち、運賃や定期券、運賃を確かめる。この間に電車は御代志駅へ折り返していく。改札を担う早番の店員も、20分おきの到着の合間に、売店に戻って定期券を発行したり回数券を販売したりと大変に忙しかったそうだ。

通学で藤崎宮前駅を使い、すっかり母と顔見知りになった高校生たちが、「おばちゃん、おはよう」と挨拶していく。

「おばちゃん、このガム、なんかと交換して~」と売店にわらしべ長者なちょっかいを出しに来る男子高校生もいたし、ベンチでたばこを吸っている高校生をがいて、母がたばこを取り上げて怒ったこともある。

母と街で買物をしていると、そんな高校生たちが「おばちゃーん」と声をかけてくることもあって、私はひそかに「お母さんは人気ものなんだ」と誇らしく思っていた。

(おばちゃん、おばあちゃんと言われていた母は、この頃私と同じ歳だった。私もすっかりおばちゃんの年齢なのだ…)

朝、こっそり期限切れの定期券を隠して通ろうとする高校生のことも、長年改札に立っていると手で隠しているのがわかったという。期限切れをごまかしているのを見つけると、その場では「行っていいよ、定期券ば置いていきなっせ」と高校生を学校に行かせ、親に連絡。

「お金ば払えばよかっでしょうが!」
と強気の親がやってくるも、
「はい、払ってください」
「領収書ばちょうだい!」
「いいですよ。定期券不正代金、て領収書に書くんですか」
「会社に言いつけるけんね!」
「よかですよ」

と丁々発止なやりとりをしていたそうで、そんな武勇伝を聞くのも好きだった。

ちなみに怒鳴り込んだ親は本当に本社に電話したが、本社から母に「原田さん、気にせんでいいけんね」と電話があったそうだ。

母のほかにも二人のパート女性がいて、早番、昼版、夕番と、三人で交代しながら担当していたが、三人は仲が良く、シフトを融通しあっていたし、それぞれの得意分野で互いの苦手をカバーしあっていた。

掃除は西元(仮名)さん、
計算は加藤(仮名)さん、
交渉は原田さん(母)。

というふうに。

母は破れコウモリを拾って売店に干しておいたり、捨て猫を拾って窓口に前に箱に入れて保護しておいて、窓ガラスに「ネコいりませんか」と張り紙をしておいたりした。それも誰も咎めなかった。本当に信じられないくらい、のんびり気楽な売店だったのだ。乗務員や、売店の管理会社の従業員などもちょくちょく休憩して、三人のパート女性とおしゃべりしては仕事に戻っていった。

売店のおばちゃんの娘

私は高校が終わると、高校の最寄り(といっても歩くと30分ほどかかる)駅だった堀川駅で母と待ち合わせして帰ったり、母のいる藤崎宮前駅の売店へ行き、働く母の後ろで仕事が終わるのを待っていた。

母がフレンドリーに接客していたり、計算していたりする姿を見ると、いちいち誇らしくなった。

パートの子どもが売店に入るのを咎める人はおらず、西元さんも加藤さんも、売店で休憩している乗務員も、「あら、来たとねー」と誰もが歓迎してくれた。

早番の日は早朝から、遅番の日は8時くらいまで、母はいなかったから、食事を自分で用意したり、弟のお弁当を作ったりしていたけれども、自立のためのいい経験をしたと思う。

当時はスマホどころか携帯電話もなかったから、母は、オレンジ色の夕焼けの風景を狐が見ている、という表紙のノートを、連絡帳として用意した。

「アルス(当時飼っていた犬)の散歩に行っておいてね」「おかずはこれを食べてね」と、母は自分が家にいない間の指示を書いていて、それがとてもうれしかった。

高校を卒業すると、私は進学のために上京することになった。菊電で須屋駅から北熊本駅、乗り換えて南熊本駅、そこからJR熊本駅に行って、博多駅まで乗り、新幹線で東京へ向かい、一人暮らしの大学生活が始まった。母のパート代は丸々、私の東京での生活費として振り込まれた。

長期休暇には熊本に帰り、やっぱり売店に行って、母の仕事を見た。

東京で就職してからも、帰省すれば売店の母を見に行った。

東京で子どもを産んで、帰省すると、赤ちゃんだった子どもを抱いて、売店に行き、ほかのパートさんにも赤ちゃんを見せて、離乳食を食べさせた。

私と母が一緒に菊電で帰り、須屋駅で電車を降りるときは乗務員が帽子をちょこんとあげて挨拶してくれたし、子どもが三つくらいのときに帰省して電車に乗った時は、乗務員の帽子をかぶせてくれて、子どもはたいへん喜んだ。

いつも、何歳でも、売店で働いている母が私は誇らしかった。

そんな菊電の売店パートは、14年、私が30歳になるころまで続いた。

母、菊電を去る

終わりのきっかけは、会社の再編だった。

藤崎宮前駅の売店は、熊本電気鉄道という会社の関連会社が電鉄から委託を受けて管理しており、その事務所は売店の2階にあった。

2階にいる関連会社の従業員が売店の鍵や売上を管理しており、この従業員と売店の売り子たちの関係も良く、窓口に「やっかいな客」が来て母を含めパート女性に危険が及びそうなときは、2階の関連会社の男性従業員が対応してくれていた。

ところが、あるとき、この関連会社が本社に吸収されることになり、売店は本社直轄となり、2階の関連会社の事務所がなくなった。

売店は、母をはじめ売り子のパート女性が売上も、閉店後の施錠も行うことになった。

これまでも施錠はしていたが、2階の従業員が確認してくれていたのだ。さらにその鍵は、パスワードつきのカードキーとなり、これまでと管理の仕方が変わった。

母は、鍵をちゃんと閉めたか心配になり、一度家に帰っても、また電車に乗って1時間かけて藤崎宮前駅に確認しに行くこともあった。

そのあたりから、母は血圧があがり、体調を崩しがちになった。祖母の介護、父の病気も重なった。

会社からは「あんたにやめられたらやっていけない」と何度も引き止められていた。

引き留められるくらい、重要な立場となっていたことは私にとっては誇らしかったが、ある意味、パート従業員だけで店の施錠や売上までを管理するのは、過渡期だったので仕方がないかもしれないが、無理があった。

一度辞めたあとにも復帰の要望があり、お世話になった本社の人の願いを聞いて一度復帰した。勝手ながら、私は少しうれしかった。しかし、やはり体調がすぐれず、すぐにまた辞めることになった。

それから、18年ほどたったのだがいまだに、私は藤崎宮前駅のこと、そこで働く母のことをよく思い出すし、熊本に帰ると菊電に乗りに行く。

母の背中はいかほどか

私の子どもは、藤崎宮前駅の売店にちょくちょく行っていたときの私と同じくらいの歳、18歳になった。私も母のように、近くで働く姿を見せるのがいいと思い、子どもが小さいころはフリーライターとして家を拠点にして書き、子どもが大きくなってきたら情報誌を立ち上げて、事務所に子どもを連れていき、どうにか事業として成り立たせて、会社をつくった。

母は私が若いころ、とにかく口を出さなかったので、それもえらい母親だったなと思う部分で、今も娘と同居しているということもあるが、私は一緒に住んでいる娘のことが気になって、うまいアドバイスなんて少しもできず、うるさがられてけんかばかりだ。私の仕事を見せたことが、いつかプラスになるのかどうか、イメージはわかないが、とにかく元気に成年したから、これでよかったとしよう。

母は73になり、変わらず熊本で、まちの人たちと仲良く暮らしながら、野菜を育てたり父とけんかしたりして暮らしている。ずいぶん歳をとった父母のそばにいたい、そろそろ、できる限りそうしなければならないと気は焦る。かといって、東京での暮らしを捨てるわけにもいかない。

東京と熊本、電車つながり

東京、熊本での仕事と生活を両立するのは難しいけれど、今私が住む東大和市と、父母のいる合志市は、子育てのしやすさをPRしており、東京で出生率が一位になったり、暮らしやすい街ランキングの上位になったりしているという共通点がある。

東京、熊本で、暮らしを前向きにする情報発信ができたら。無理がある気はするのだけれど、環境は味方してくれている気がする。

熊本阿蘇空港からの電車は、2030年に開通予定だという。菊池電車の始発駅、御代志駅は、最近、新しくきれいになって、周辺にビジネス拠点や商業施設も生まれているのだ。

本当に何もなかった場所なのだが、実家周辺の発展ぶりは目覚ましく、閉鎖していた田舎が開放されていく快感がある。

そして奇しくも、私が地域情報誌を発行している地域、武蔵村山市は東京で唯一駅がなく、鉄道敷設は悲願なのだが、阿蘇熊本空港の駅開通予定と同じ、2030年に多摩モノレールが瑞穂町の箱根ヶ崎駅まで延伸し、5つの駅ができる予定だ。

こじつけかもしれないけれど、重要な駅ができていく、ホームタウンたる二つの地域を拠点にして、地域を前向きにしていく仕事を成り立たせることができたら。

今、発行している『たまきたPAPER』は「多摩の北」のフリーペーパーなんだけれども、「熊本の北」のフリーペーパー『くまきたPAPER』を発行するのもいいかもしれない。娘にももう一歩、多摩から世界を広げた母の仕事を見せたいと思っている。

それで、熊本で情報発信の土台ができたら、この菊電の物語を改めて掲載して、地元・熊本の人たちにもかつての藤崎宮前駅を、そののんびりしたかつでの熊本の良さを読んでもらいたいし、歳をとってきた母にも見せて、「いい人生だな」と思ってもらえたらな、と、ずいぶん勝手な夢想をしている。

#創作大賞2023

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