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人間が生きることを肯定したい・6「センサー」

『そもそも希望は、いつも、「・・・にもかかわらず」心にいだかれるものだ。「・・・だから」希望がいだかれるわけじゃない。』
_____「オリーブの森で語り合う」(ミヒャエル・エンデ全集15)より

前回「リズム」という文章を発表したところ、
読んでくださっている方から、とても共感できるメールが届いた。
了解をいただいたので、少し引用させていただく。

『これはキリスト教の「罪」、という言葉についての説明なんだけど、
 以前読んだのが、たとえばある人が道端に倒れているとする。
 その倒れている状態が、通常ではない、と感じる気持ち、
 これは論理ではない、と。
 コップが割れている、椅子が倒れている、
 その状態がおかしい、と感じるのは人の気持ち、
 そこからたしか、「愛」という言葉を説明してたんだけど、
 それでその普通じゃない状態を放置すること、回復させないこと、
 その状態を「罪」の説明にたとえていたのを読んだ事があります。
 ……まあ、「教義」とかどうでもいいんだけど、
 つまり、そこでボクがなるほど、と思ったのは、
 通常じゃない状態を感じるセンサーが人間にはついていて、
 それを元に戻そうとする欲求が備わっているんだなあ、と。
 
 彩子さんの言うリズム、世界秩序は、
 そういう感覚ともつながっているのかな。
「どうして殺しちゃいけないのか」
「どうしてエンコーしちゃいけないのか」
 それをはっきり言える大人がいなくても、
 その前に人間にはセンサーがついてるじゃん、と
 それに照らしてどうなんだよ、と
 なんだかそういう風に、思えるようになったんです。
 カンタンすぎるかもしれないけど。』

私自身、実はまったく同じようなことを、大学の卒論で書いていた。
テーマはドイツ児童文学の巨匠ミヒャエル・エンデについてだった。
エンデいわく、

『モラルとは直感です。お題目ではありません。直感に根ざして一回一回
 モラルを創造しうる人間、他から与えられた尺度や、
 社会の慣習に根拠を置くのではなく、ある状況に直面した瞬間、
 そのたびごとの道徳的決断を下す人間・・・(以下略)』

私はこの発言を受けて、
「この『モラルとは直感です』という見解を聞いて、ふと思い起こされるのが、最近社会問題となっている「援助交際」である。お金や物欲しさに、愛してもいない相手に体を許す。そのことに対して、「いいじゃない、へるものじゃなし。」と考えるのが、マテリアリズム的因果関係に基づくものであろう。逆に、頭では「いいじゃない」と思っていても、胸にどうしようもない罪悪感や、何に対してというわけでもないのに、申し訳なさのようなものが湧いてきたとしたら、それがまさに、人間としての直感、モラルである」
と書いていたのである。
この「直感」=「センサー」であるし、「センサー」が作動する=「リズム」を感じる、ということだと思った。

私は、いつも思う。
桜が咲き乱れる、山々が紅葉でいっせいに色づく、
オーケストラがショパンを演奏する、
美術館にモネが展示される、
人間はそれを「美しい」と思うから、
どんなに混雑していて大変でも、一目それを見よう、聞こうとする。
何かを「きれいだ」「気持ちいい」「美しい」と思う気持ちに、理由はない。
物理的に得するわけでもなんでもない。
それなのに、自然にそう思える。
自分の「リズム」や「センサー」に気付くためには、
そこが糸口ではないかと。
逆もまた同じことで、
悲惨なことを見て、
「ひどい」「悲しい」「おかしい」って思える気持ちも、
本来、自分の内側から自然発生するものだと思う。

だが、リズムが狂うと、その気持ちの自然発生をさまたげる。
何を見ても、美しいとも、悲しいとも感じられない。
人を刺して、自分の手が血にまみれても、
それをおかしいと思えない。
センサーが作動しない人たち。
リズムを感じられない人たち。

何かとても悪いことをしても、
自分の中で警笛が鳴り響いていれば、
それはセンサーが間違えなく作動している。
人間らしく。
人間だから。

このメルマガによって、
自分の思いを言語化するようになってから殊更に、
テレビでも映画でもメールでも本でも、
目に見えないものを自然に信じて悲しみを癒したり、
幸せを願ったり、
無心に誰かを愛していたりする場面にであうと、
もう泣けて泣けてしょうがない。
「そうだよね。やっぱりそうだよね」って思って。
「こんなに一生懸命、私が言葉で表現しようとしなくたって、
 なんだ、みんな知ってるじゃないか」って思って。

ごく最近では、映画の予告に心打たれた。
キャッチコピーは、こうである。

『ある日曜の朝__楽園は炎に包まれた。
 生と死の間で、人々はひたすら神に祈った。
「愛する者を、守りたまえ」と・・・。』

ふと胸が熱くなる。誰かに問いかけたい。
人は、極限状態のとき、誰かを何かを本当に愛していれば、
その愛を、心に思うだろうかと。
人が死に直面したとき、心に自然発生するのは、
愛であるだろうかと。
その可能性を、神様、信じていいのですか、と。

=====DEAR読者のみなさま=====

冒頭に引用しました、ミヒャエル・エンデの言葉を、
ちょっともう一度、思い出してください。
どういう意味だか、わかりましたか?
「エンデと語る」という対談集の中で、
エンデはこのことについて、もう少し詳しく述べています。

『この世界に愛する理由も見つからない。
 にもかかわらず、人間は愛します。
 事物が人間を愛させる方に向けてくれるからではない。
 信じる、にしても同じです。
 まわりじゅうの事実は何も確信させてくれない。
 にもかかわらず、
 究極的にはすべてに意味があるだろう、と人は信じます。
 (中略)
 人間の歴史は、血と涙のあとでしかなかった、とさえ言えるでしょう。
 それにもかかわらず、信じた、愛した、希望した、
 だからこの三つは「自然を超えた徳」なのです。』

エンデは、人間というものに対して、
とても肯定的で、決して希望を捨てなかったのですね。
どんなに周りの事象が悲惨でも、
人間には、人間であるというそのことだけで、
信じ、愛し、希望する力があると言っています。
私はエンデの思想に魅かれます。
私も決して、人間をあきらめたくないから。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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